真夏の正午前の太陽に照りつけられた関東平野の上には、異常の熱量と湿気とを吸込んだ重苦しい空気が甕の底のおりのように層積している。その層の一番どん底を潜って喘ぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠の第一トンネルにかかるこ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・と比較し、そうしてまた、フランスならびにロシアに対する日本のものとして見ようとする際には遺憾ながら私は帝劇の真夏の午後の善良なる一人のお客としての地位を享楽することの幸福を放棄しなければならなくなるのである。 たとえば文士渡辺篤君の家庭・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・南国の真夏の暑い盛りであった。町から東のO村まで二里ばかりの、樹蔭一つない稲田の中の田圃道を歩いて行った。向うへ着いたときに一同はコップに入れた黄色い飲料を振舞われた。それは強い薬臭い匂と甘い味をもった珍しい飲料であった。要するにそれは一種・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ 南国の真夏の暑い真盛りに庭に面した風通しのいい座敷で背中の風をよけて母にすえてもらった日の記憶がある。庭では一面に蝉が鳴き立てている。その蝉の声と背中の熱い痛さとが何かしら相関関係のある現象であったかのような幻覚が残っている。同時にま・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ いつぞや柳橋の裏路地の二階に真夏の日盛りを過した事があった。その時分知っていたこの家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外の物干台へ照付ける日の光の眩さに辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・それで一層気をつけてみると、そうやって、しおたれ浴衣を着た私は空が燦々した真夏の青空であることを理解し、青桐の葉がふっさりとした緑であることも知ってはいる。誰か人がいて、この空は何色かと訊いたら、私は碧い空だと答えただろう。青桐は? といわ・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・色彩ある生活の背景として、棚の葡萄は大きな美しい葉を房々と縁側近くまで垂らして涼風に揺れた。真夏の夕立の後の虹、これは生活の虹と云いたい光景だ。 由子は、独りで奥の広間にいた。開け放した縁側から、遠くの山々や、山々の上の空の雲が輝いてい・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・日本でも、近ごろ「真夏の夜の夢」が五十日間上演されて、東宝の財政をうるおした。 興味深いものは、私たちが今日面している人間性解放の現実的諸要素の構成と、ルネッサンス芸術家としてのシェクスピアの世界での人間解放とが、どのようにたがいに似て・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
一 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突・・・ 横光利一 「蠅」
・・・時は真夏の午後、三、四時ごろである。二人は何も言わない。ただ時々、パチッパチッと石を置く音がする。 わたくしにはこの寺がどこであるか解らない。また碁を打っている住持と地主が誰であるかも解らない。しかしいつのころからか、松風の音を思うと、・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫