私が改造の正月号に「宣言一つ」を書いてから、諸家が盛んにあの問題について論議した。それはおそらくあの問題が論議せらるべく空中に漂っていたのだろう。そして私の短文がわずかにその口火をなしたのにすぎない。それゆえ始めの間の論駁・・・ 有島武郎 「想片」
・・・という短文を書いて、その頃在籍していた国民新聞社へ宛ててポストへ入れに運動かたがた自分で持って出掛けた。で、直ぐ近所のポストへ投り込んでからソコラを散歩してかれこれ三十分ばかりして帰ると、机の上に「森林太郎」という名刺があった。ハッと思って・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ その頃すでに読者から日記や短文の募集をしていた。自分も時に応募していたが、自分の書いた文章が活字になったのは多分それが最初であったと思う。理科大学の二年生で西片町に家を持っていたその頃の日記の一節を「牛頓日記」と名づけて出したことがあ・・・ 寺田寅彦 「明治三十二年頃」
・・・ この感想を私は或る新聞の短文にかいたら、あの飛行機は台湾のなかだけ翔んでいるので云々と云ってかえして来た。これも妙だと思われる。私たちの科学上の低い低い常識でさえ、旅客機として翔ぶからには、人命に対する責任上台湾の中だからとて無電なし・・・ 宮本百合子 「市民の生活と科学」
・・・六月号の新日本文学をよんだ方は十返肇の小林多喜二についての短文中、「同志によって殺されたにしても」小林多喜二は満足であろうという文章をよまれたでしょう。 同じような文句は一九三三年二月小林多喜二が築地警察署で拷問の果に殺されたとき、板・・・ 宮本百合子 「文学について」
・・・ふつつかなかな文字で書いてはあるが、条理がよく整っていて、おとなでもこれだけの短文に、これだけの事がらを書くのは、容易であるまいと思われるほどである。おとなが書かせたのではあるまいかという念が、ふときざした。続いて、上を偽る横着物の所為では・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・院総裁談として、わが国にも新武器として殺人光線が完成されようとしていたこと、その威力は三千メートルにまで達することが出来たが、発明者の一青年は敗戦の報を聞くと同時に、口惜しさのあまり発狂死亡したという短文が掲載されていた。疑いもなく栖方のこ・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫