・・・ 秋日和の三時ごろ、人の影より、黍の影、一つ赤蜻蛉の飛ぶ向うの畝を、威勢の可い声。「号外、号外。」 二「三ちゃん、何の号外だね、」 と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場の馴染の奴、張ものにうつむいた・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・……樹島は赤門寺を出てから、仁王尊の大草鞋を船にして、寺々の巷を漕ぐように、秋日和の巡礼街道。――一度この鐘楼に上ったのであったが、攀じるに急だし、汗には且つなる、地内はいずれ仏神の垂跡に面して身がしまる。 旅のつかれも、ともに、吻と一・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
上野の近くに人を尋ねたついでに、帝国美術院の展覧会を見に行った。久し振りの好い秋日和で、澄み切った日光の中に桜の葉が散っていた。 会場の前の道路の真中に大きな天幕張りが出来かかっている。何かの式場になるらしい。柱などを・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・今日も秋日和です。 十一月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より〕 大変に色が悪くて説明書の効能が発揮されませんね。今日は割合のんきな日で満開の山茶花の花を、二階からながめたりします。咲枝さんは正に今にも、というところで、・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 壁が乾きたての小アパートという風なその二階建の建物は、ひろい農地のまんなかにポツンとたって秋日和に照らされている。門と玄関口との間が広場で、その一方に足場をほぐした丸太や板がつみ重ねてあった。それによりかかったりして、十五六人の女のひ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・地面の湿っぽい香と秋日和の草の匂いとが混ってある。 みのえは、涙を落しそうな心持で、然し泣かずそこに足をなげ出して虫や草を眺めていた。少し病気になったようにみのえは奇妙な心持であった。母親も油井もいやで、がっかりして、風も身に沁みる、空・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・「ヨオロッパでは寒さが早く来ますから、こんな秋日和の味は味うことが出来ませんね」と、秀麿は云って、お母あ様に対して、ちょっと愉快げな笑顔をして見せる。大抵こんな話をするのは食事の時位で、その外の時間には、秀麿は自分の居間になっている洋室に籠・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝を埋めて人を悩ますことはない。 藁葺きの家が何軒も立ち並んだ一構えが柞の林に囲まれて、それに夕日がかっとさしているところに通りかか・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫