・・・とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで、自然人間の思想も健全になるというような訳で……」斯う・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・しかし自分がその隠れた欲望を実行に移すかどうかという段になると吉田は一も二もなく否定せざるを得ないのだった。煙草を喫うも喫わないも、その道具の手の届くところへ行きつくだけでも、自分の今のこの春の夜のような気持は一時に吹き消されてしまわなけれ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・が二人の間には、膝から下を切断し、おまけに腹膜炎で海豚のように腹がふくれている患者が担架で運んで来られ、看護卒がそれを橇へ移すのに声を喧嘩腰にしていた。栗本は田口がやって来そうにないのを見て、橇からおりて雪の中の馬の頭のさきを廻って行った。・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・担架に移す時、バラバラ落ちそうになった。 彼等は、空腹も疲労も忘れていた。夜か昼か、それも分らなかった。仲間を掘り出すのに一生懸命だった。 二人、三人と、掘り出されるに従って、椀のような凹みに誰れか生き残っている希望は失われて行った・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・女が鉄瓶を小さい方の五徳へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋を取る、ぐいと雲竜を沈ませる、危く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳り出しもし得ず引退んだり出たりしている間に鍋は火にかけられる。「下の抽斗に鰹節があるから。と女は云いながら・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・当下に即ち了するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の喜は溢れていると思うようになれば、勝って本より楽しく、負けてまた楽しく、禽を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで事相の成不成、機縁の熟・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・が、火鉢に移すと、何も言わずに出ていった。 寒かった、龍介はテーブルを火鉢の側にもってきて、それに腰をかけて、火鉢の端に足をたてた。「行儀がわるい」女は下から龍介を見上げた。「寒いんだよ。それより、君はこれを敷け」彼は女に座布団・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・何しろ、家を移すということは容易じゃ無いよ――加之に遠方と来てるからなあ」 相川は金縁の眼鏡を取除して丁寧に白いハンケチで拭いて、やがてそれを掛添えながら友達の顔を眺めた。「相川君、まだ僕は二三日東京に居る積りですから、いずれ御宅の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・その無造作は、自分の書斎を外国の町に移すぐらいの考えでいた。全く知らない土地に身を置いて見ると、とかく旅の心は落ちつかず、思うように筆も取れない。著作をしても旅を続けられるつもりの私は、かねての約束もその十が一をも果たし得なかった。「これま・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・そんな時には、相手から、すみませんと言われても、私はまごつかず、いいえ、と挨拶をかえす事も出来るのであるが、マッチの軸木一本お上げしたわけでもなく、ただ自分の吸いかけの煙草の火を相手の人の煙草に移すという、まことに何でもない事実に対して、叮・・・ 太宰治 「作家の手帖」
出典:青空文庫