・・・といえば嘘みたいですが、本当に疲労と空腹がはげしくなれば、口を利くのもうるさくなる。ままよ、面倒くさい口を利くくらいなら、いっそ食べずにおこうと思うわけ、そしてそんな状態が続けば、しまいには口を利きたくても唇が動かなくなるのです。そうして、・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・らぬ遠さにあきれていると、実は、私は和歌山の者ですが、知人を頼って西宮まで訪ねて行きましたところ、針中野というところへ移転したとかで、西宮までの電車賃はありましたが、あと一文もなく、朝から何も食べず、空腹をかかえて西宮からやっとここまで歩い・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・そしてまだ晩飯を済ましてなかったので、三人ともひどく空腹であった。 で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入った。子供等には寿司をあてがい、彼は酒を飲んだ。酒のほかには、今の彼に元気を附けて呉れる何物もないような気がされた。彼は貪るように、・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・それが夢のように消えてしまうとまたあたりは寒い闇に包まれ、空腹した私が暗い情熱に溢れて道を踏んでいた。「なんという苦い絶望した風景であろう。私は私の運命そのままの四囲のなかに歩いている。これは私の心そのままの姿であり、ここにいて私は日な・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・二郎、空腹ならずや。われ、物言うも苦し。二人は相見て笑いぬ、二郎が煙草には火うつされたり。 今宵は月の光を杯に酌みて快く飲まん、思うことを語り尽くして声高く笑いたし、と二郎は心地よげに東の空を仰ぎぬ。われ、こしかた行く末を語らば二夜を重・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 空腹のとき、肉や刺身を食うと、それが直ちに、自分の血となり肉となるような感じがする。読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえって・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・ 疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去ってしまうものだ。 一個中隊すべての者が雪の中で凍死する、そんなことがあるものだろうか? あってもいいものだろうか? 少佐の性慾の××になったのだ。兵卒達はそういうことすら知らなかった。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・置いて行かずに昨夜まで六日七日帰りゃあせず、売るものが留守に在ろうはずは無し、どうしているか知らねえが、それでも帰るに若干銭か握んで家へ入えるならまだしもというところを、銭に縁のあるものア欠片も持たず空腹アかかえて、オイ飯を食わしてくれろッ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・我慢できぬ空腹感。 これらはすべて嘘である。私はただ、雨後の青空にかかっていたひとすじのほのかな虹を覚えているだけである。 ものの名前というものは、それがふさわしい名前であるなら、よし聞かずとも、ひとりでに判って来るものだ。・・・ 太宰治 「玩具」
・・・それでも、外套の肩を張りぐんぐんと大股つかって銀杏の並木にはさまれたひろい砂利道を歩きながら、空腹のためだ、と答えたのである。二十九番教室の地下に、大食堂がある。われは、そこへと歩をすすめた。 空腹の大学生たちは、地下室の大食堂からあふ・・・ 太宰治 「逆行」
出典:青空文庫