・・・のみならず気まずさを紛らすために何か言わなければならぬことも感じた。「じゃどこに住みたいんだ?」「どこに住んでも、――ずいぶんまた方々に住んで見たんだがね。僕が今住んで見たいと思うのはソヴィエット治下の露西亜ばかりだ。」「それな・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・僕はさんざんためらった後、この恐怖を紛らす為に「罪と罰」を読みはじめた。しかし偶然開いた頁は「カラマゾフ兄弟」の一節だった。僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙へ目を落した。「罪と罰」――本は「罪と罰」に違いなかった。僕はこの製本屋の綴じ違・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・お互に気のない風はしていても、手にせわしい仕事のあるばかりに、とにかく思い紛らすことが出来た。 十五日と十六日とは、食事の外用事もないままに、書室へ籠りとおしていた。ぼんやり机にもたれたなり何をするでもなく、また二人の関係をどうしようか・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・言換えると二葉亭は周囲のもの一切が不満であるよりはこの不満をドウスル事も出来ないのが毎日の堪えざる苦痛であって、この苦痛を紛らすための方法を求めるに常に焦って悶えていた。文学もかつてその排悶手段の一つであったが、文学では終に紛らし切れなくな・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・また一方では、相当な科学者の書いたものでも、単に読者の退屈を紛らすためとしか思われないような、話の本筋とは本質的になんの交渉もないような事がらを五目飯のように交ぜたり、空疎な借りもののいわゆる「美文」を装飾的に織り込んだりしたようなものもま・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・の午後に、いつなおるかわからない頑固な胃病に苦しんでいる彼の心持ちは、だいぶちがったものであった……のみならず今度の病気は彼の外出を禁じてしまったので前の病気の時のように、自由に戸外の空気に触れて心を紛らす事ができない。使えば使われそうに思・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・ 蓄音機がぱたりとやむと、踊り子たちの手持ちぶさたを紛らすためにだれかが歌いだす。それに合わせて皆が踊り始めると途中で突然また蓄音機の音が飛び込んで来る。所かまわず歌の途中からやにわに飛び込んで来るので踊り手はちょっと狼狽してまた初手か・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・長い休暇の所在なさを紛らす一つの仕事として私はヴァイオリンのひとり稽古をやっていた。その以前から持ってはいたが下宿住まいではとかく都合のよくないためにほとんど手に触れずにしまい込んであったのを取り出して鳴らしていたのである。もっともだれに教・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・どんな人でもくさくさすればそこから自分の心持を紛らすことを望みます。どんな若い人が自分の青春が貧困であることを願っているでしょう。けれども、毎日が、そして現実が不如意だからといって、決して自分の生活に作り出すことも出来ず、取り入れることも出・・・ 宮本百合子 「自覚について」
・・・私たちがもし生活に空虚を感じるときは、決してただそれを紛らす方法ばかりを考えてはいけないと思う。よくその空虚の感じを身にしめて、何故そんな思いが自分に湧くか、その根源を心と体のすみずみによく探って、できるだけの努力でその空虚の根をつかまえて・・・ 宮本百合子 「働く婦人の新しい年」
出典:青空文庫