・・・大阪弁は、独自的に一人で喋っているのを聴いていると案外つまらないが、二人乃至三人の会話のやりとりになると、感覚的に心理的に飛躍して行く面白さが急に発揮されるのは、私たちが日常経験している通りである。 谷崎氏の「細雪」は大阪弁の美しさを文・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・……お前にはそんな経験はあるまい?」 耕吉はまじめな顔して言った。それはこの二年ばかし以来のことだが、彼は持病の気管支と貧乏から、最も恐れている冬が来ると、しばしばこの亡霊に襲われたと言うのだ。彼は家を追われた病犬のように惨めに生きてい・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・彼は相手に自分の意見を促されてしばらく考えていたが、「さあ……僕にはむしろ反対の気持になった経験しか憶い出せない。しかしあなたの気持は僕にはわからなくはありません。反対の気持になった経験というのは、窓のなかにいる人間を見ていてその人達が・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・』と自分は何心なく答えて、そしてわれ知らず、未だかつて経験した事のない哀情が胸を衝いて起こった。『君が春なら僕は小春サ、小春サ、いまに冬が来るだろうよ!』『ハハハハハ冬が過ぎればまた春になりますからねエ』と小山はさも軽々と答えた。・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より貴重なものを経験せずに逸するなら、賢く生きたともいえまい。深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たし・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ところが、第二番目のハドウ、それは少し山の経験が足りなかったせいもありましょうし、また疲労したせいもありましたろうし、イヤ、むしろ運命のせいと申したいことで、誤って滑って、一番先にいたクロスへぶつかりました。そうすると、雪や氷の蔽っている足・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・龍介は自分自身の経験がもう一度そこに経験しなおされていることを感じた。 彼は歩きながら『黄金狂時代』はぜひ見に行こうと思った。彼がその通りを曲ったとき、ちょうどその角に五、六人の人が立っていた。龍介は通り過ぎる時にちょっと中をのぞいてみ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・るところへ勇気が出て敵は川添いの裏二階もう掌のうちと単騎馳せ向いたるがさて行義よくては成りがたいがこの辺の辻占淡路島通う千鳥の幾夜となく音ずるるにあなたのお手はと逆寄せの当坐の謎俊雄は至極御同意なれど経験なければまだまだ心怯れて宝の山へ入り・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 外国の旅の経験から、私も簡単な下宿生活に慣れて来た。それを私は愛宕下の宿屋に応用したのだ。自分の身のまわりのことはなるべく人手を借りずに。そればかりでなく、子供にあてがう菓子も自分で町へ買いに出たし、子供の着物も自分で畳んだ。 こ・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫