・・・時にはわが思う人の肖像ではなきかと疑う折さえある。只抜け出して語らぬが残念である。 思う人! ウィリアムが思う人はここには居らぬ。小山を三つ越えて大河を一つ渉りて二十哩先の夜鴉の城に居る。夜鴉の城とは名からして不吉であると、ウィリアムは・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・の次に「トルストイ」の事が出ている。「トルストイ」は先日魯西亜の国教を蔑視すると云うので破門されたのである。天下の「トルストイ」を破門したのだから大騒ぎだ。或る絵画展覧会に「トルストイ」の肖像が出ているとその前に花が山をなす、それから皆が相・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・人間世界にありうちの卑しい考は少しもなかったのだから罪はないような者であるが、そこにはいろいろの事情があって、一枚の肖像画から一編の小説になるほどの葛藤が起ったのである。その秘密はまだ話されない。恐らくはいつまでたっても話さるる事はあるまい・・・ 正岡子規 「墓」
・・・極めて優しい顔であるがただ見たように思うだけで誰の肖像か分らぬ。それから暫くは火が輝いで居るばかりで何の形も現れて来ぬ。なお見つめて居ると火の真中に極めて明るい一点が見えて来た。それが次第に大きくなって往く。終に一つの大目玉が成り立った。そ・・・ 正岡子規 「ランプの影」
もし私が肖像画家であったら、徳田球一氏を描くときどの点に一番苦心するだろうかと思う。例えば、徳田さんの眼は、独特である。南方風な瞼のきれ工合に特徴があるばかりでなく、その眼の動き、眼光が、ひとくちに云えば極めて精悍であるが・・・ 宮本百合子 「熱き茶色」
・・・若くて寡婦になったひと、その良人の肖像は幼い娘や息子に英雄として朝夕おがまれているばかりでなく、周囲からもそのように見られ、そう見ているものとして残った妻の心も一応きめられている沢山の女のひとの暮し。そういう人も、やはりこの「早春」を見に来・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・或る時何やらの雑誌で秋水の肖像を見た。芝居で見る由井正雪のように、長い髪を肩まで垂れて、黒紋附の著物を著ていた。同じ雑誌の記事に依れば、この武士道鼓吹者には女客の贔屓が多いそうである。 しかし男に贔屓がないことはない。勿論不幸にして学生・・・ 森鴎外 「余興」
・・・エルリングが指さしをする方を見ると、祭服を着けた司祭の肖像が卓の上に懸かっている。それより外にはへんがくのようなものは一つも懸けてないらしかった。「あれが友達です。ホオルンベエクと云う隣村の牧師です。やはりわたしと同じように無妻で暮していま・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・いかに単純化した手法を用うるにしても、顔面のあらゆる筋肉や影や色を閑却しようとしない洋画家は、歴史上の人物の肖像を描き得るために、モデルを前に置いたと同じ明らかさをもって、想像の人間の顔を幻視し得ねばならぬ。このことは画家にとって非常な難事・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・ このことを端的に示しているのは肖像彫刻、肖像画の類である。芸術家は「人」を表現するのに「顔」だけに切り詰めることができる。我々は四肢胴体が欠けているなどということを全然感じないで、そこにその人全体を見るのである。しかるに顔を切り離した・・・ 和辻哲郎 「面とペルソナ」
出典:青空文庫