・・・ 肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の主人で。一度戸口へ引込んだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、「どうした。」 と小声で言った。「まだ、お寝ってです。」 起きるのに張合がなくて、細君・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ やがて、その人が駅の改札口をはいって行くその広い肩幅をひそかに見送って、再びその広場へ戻って来ると、あたりはもうすっかり暗く、するすると夜が落ちていた。「お姉さま。道子はお姉さまに代って、お見送りしましたわよ。」 道子はそう呟・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・彼は、背丈は、京一よりも低い位いだったが、頑丈で、腕や脚が節こぶ立っていた。肩幅も広かった。きかぬ気で敏捷だった。そして、如何にも子供らしい脆弱な京一は仕事の上で留吉と比較にならなかった。 京一は、第一、醸造場のいろいろな器具の名前を皆・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・六人の群は皆肩幅の広い男ばかりである。ただ老人よりはみな若い。どれもどれも変に顴骨が出張っていて、目がひどく大きくなっている。その顔の様子はどこか老人に似ているのである。老人はやはり懐疑者らしく逆せたような独言に耽っている。「馬鹿らしい。な・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・車の上の男は赤ら顔の肩幅の広い若者でのんきらしく煙管をくわえているのも絵になっていた。魚網を肩へかけ、布袋を下げた素人漁夫らしいのも見かけた。河畔の緑草の上で、紅白のあらい竪縞を着た女のせんたくしているのも美しい色彩であった。パヴィアから先・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・あんなに無粋な肩幅のある人とは思わなかった。あんなに角張った顎の所有者とは思わなかった。君の風ふうぼうはどこからどこまで四角である。頭まで四角に感じられたから今考えるとおかしい。その当時「その面影」は読んでいなかったけれども、あんな艶っぽい・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・広い肩幅である。薄ねずみの柔かいシャツを着て同じような色の上衣を軽く着ている。彼は大きいさっぱりと温い手で私の手をとり、そこの椅子にかけさせた。写真で馴じみの深い髯、灰色がかって大変に集中的な表情をもった眼、額の二本の横皺、それらは少し、し・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイによって描かれた婦人」
・・・実に背の高い肩幅のひろい年寄り。写真でなじみのあるあの髭、薄いねずみいろのフランネルのシャツ、その上に楽に羽織られているやっぱり灰色のような単純な上衣。握手した手は温かく大きく、そしていかにもさっぱりしている。私は、これは日向の立派な樅の木・・・ 宮本百合子 「私の会ったゴーリキイ」
・・・権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。弟どもも一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。 政道は地道である・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫