・・・ 札幌から大勢の警官に見送られて二十人余り背広服の壮漢が同乗したのが、船でもやはり一緒になった。途中の駅でもまた函館の波止場でも到る処で見送りが盛んであった。「頑張れよ」「御大事に」「しっかり頼むよ」口々にこうした激励の言葉を投げた。船・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ ここまでは、一人も人に逢わなかったが、板塀の彼方に奉納の幟が立っているのを見て、其方へ行きかけると、路地は忽ち四方に分れていて、背広に中折を冠った男や、金ボタンの制服をきた若い男の姿が、途絶えがちながら、あちこちに動いているのを見た。・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・千筋の縮みの襯衣を着た上に、玉子色の薄い背広を一枚無造作にひっかけただけである。始めから儀式ばらぬようにとの注意ではあったが、あまり失礼に当ってはと思って、余は白い襯衣と白い襟と紺の着物を着ていた。君が正装をしているのに私はこんな服でと先生・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・高原君は御覧の通りフロックコートを着ておりましたが、私はこの通り背広で御免蒙るような訳で、御話の面白さもまたこの服装の相違くらい懸隔しているかも知れませんから、まずその辺のところと思って辛抱してお聴きを願います。高原君はしきりに聴衆諸君に向・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・仕立おろしの紺の背広を着、赤革の靴もキッキッと鳴ったのです。「実にしずかな晩ですねえ。」「ええ。」樺の木はそっと返事をしました。「蝎ぼしが向うを這っていますね。あの赤い大きなやつを昔は支那では火と云ったんですよ。」「火星とは・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
・・・私たちの方から若い背広の青年が立って行きました。「あの人は私は知ってますよ。ニュウヨウクで二三遍話したんです。大学生です。」 その青年は少し激昂した風で演説し始めました。「ご質問に対してできるだけ簡単にお答えしようと思います。・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 何年もおなじ系統の職業に従事してきたことが、短く苅った頭にも、書類挾みをもった手首の表情にもあらわれている事務官が、黒い背広をきて、私たちの入ったとは反対側のドアから入ってきた。課長と大同小異の説明をした。もし、書くもののどういうとこ・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・なかに、小型写真機を胸の前にもって、松の樹の下に佇んでいる同僚をうつしているつつましい背広姿もよく見かける。外国であったら、その時松の樹を背景として立っているのは、陽気に皓い歯並をキラメかせている同僚の女の子であるだろうのに、お濠のまわりの・・・ 宮本百合子 「カメラの焦点」
・・・それから部屋に這入って、洗面卓の傍へ行って、雪が取って置いた湯を使って、背広の服を引っ掛けた。洋行して帰ってからは、いつも洋服を著ているのである。 そこへお母あ様が這入って来た。「きょうは日曜だから、お父う様は少しゆっくりしていらっしゃ・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 悄然として呟く紺背広の技師の一歩前で、これはまた溌剌とした栖方の坂路を降りていく鰐足が、ゆるんだ小田原提灯の巻ゲートル姿で泛んで来る。それから三笠艦を見物して、横須賀の駅で別れるとき、「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫