・・・ 家へ帰ってくると、道太は急いで著物をぬいで水で体をふいたが、お絹も襦袢一枚になって、お弁当の残りの巻卵のような腐りやすいものを、地下室へしまうために、蝋燭を点して、揚げ板の下へおりていった。「こんなもの忘れていた」お絹はしばらくす・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・彼は窓外を呼び過ぎる物売りの声と、遠い大通りに轟き渡る車の響と、厠の向うの腐りかけた建仁寺垣を越して、隣りの家から聞え出すはたきの音をば何というわけもなく悲しく聞きなす。お妾はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人燈火のない座・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・そして其処には使捨てた草楊枝の折れたのに、青いのや鼠色の啖唾が流れきらずに引掛っている。腐りかけた板ばめの上には蛞蝓の匐た跡がついている。何処からともなく便所の臭気が漲る。 衛生を重ずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・あしさきが腐り出したんだ。長靴のタールもなにももうめちゃくちゃになってるんだ。」 うしろのはしらはもどかしそうに叫びました。「はやくあるけ、あるけ。きさまらのうち、どっちかが参っても一万五千人みんな責任があるんだぞ。あるけったら。」・・・ 宮沢賢治 「月夜のでんしんばしら」
・・・「いいだろうさ。腐りがたくて。」助手が苦笑して云った。 豚が又畜舎へ入ったら、敷藁がきれいに代えてあった。寒さはからだを刺すようだ。それに今朝からまだ何も食べないので、胃ももうからになったらしく、あらしのようにゴウゴウ鳴った。 ・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・雨が降れば、きっと根本まで腐りそうなその雨だれの音と、一太によく訳の分らない昔のよかった暮しのことなど聞かされる。ああ、だから一太は雨っぷりが厭だ。けれども、本当にいつか、そんな母親の云うような縮緬の揃の浴衣で自分が神輿を担いだことがあった・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 彼等の仲間では昔ながら恐ろしいものにされている祈り釘をこの人形に打ちこんで海老屋の人鬼の手足を、端々から腐り殺してやりたい! 祈り殺さずにおくものか! 手先はブルブル震えるし、どうやったらこのバサバサな藁が人形になるかも分らない。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ それが、裏庭にある小学校長の家で妻君が庭を掃いて居る時にきこえてからと云うもの、もらいものが腐りそうになっても、食べきれないほど野菜があってもやる事はぴったりやめ用事があってもこの婆さんの居る時は必(して声さえかけないほどになった・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・マリアの肺が両方とも腐りはじめていることを知っていたのは、本当はマリア自身だけなのであった。それから、彼女の身のまわりを世話していたロザリイという召使と。ついにマリアが立てなくなるまで、二人のほかには母さえもマリアがそんな重い病にとりつかれ・・・ 宮本百合子 「マリア・バシュキルツェフの日記」
・・・すると彼の頭の中には、無数の肺臓が、花の中で腐りかかった黒い菌のように転がっている所が浮んで来る。恐らくその無数の腐りかかった肺臓は、低い街々の陽のあたらぬ屋根裏や塵埃溜や、それともまたは、歯車の噛み合う機械や飲食店の積み重なった器物の中へ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫