・・・雪は深かった。膝頭まで脚がずりこんでいた。それを無理やりに、両手であがきながら、足をかわしていた。 その男は、悲鳴をあげ、罵った。 イワンは、それ以上見ていられなかった。やりきれないことだ。だが無情に殺してしまうだろう。彼は馬の方へ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・娘の外套は、メリケン兵の膝頭でひら/\ひるがえった。街へあいびきに出かけているのだ。娘は、三カ月ほど、日本兵が手をつけようと骨を折った。それを、あとからきたアメリカ兵に横取りされてしまった。リーザという名だった。「馭者!」「馭者!」・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・これに就いて可笑しい話は、柄が三尺もある大きい薪割が今も家に在りますが、或日それを窃に持出しコツコツ悪戯して遊んで居たところ、重さは重し力は無し、過って如何なる機会にか膝頭を斬りました。堪らなく痛かったが両親に云えば叱られるから、人前だけは・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・さて頭をその膝頭に載せた。老人はこんな風に坐って、丁度あの鴉のように、誰かが来て自分を突き飛ばしてくれるのを待っているのである。 空からはちらほらと、たゆたいながら雪が落ち始める。・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・落ちついた振りをしていても、火燵の中の膝頭が、さっきからがくがく震えているじゃありませんか。」「けしからぬ。これはひどく下品になって来た。よろしい。それではこちらも、ざっくばらんにぶっつけましょう。一尺二十円、どうです。」「一尺二十・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭のあたりにまでさげた。「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。いったい何をしているのです。」「だめなんでございます。まるで気ちがいですの。」 僕は微笑んだ。曲った火箸の話を思い出したの・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・名状すべからざる恐怖のため、私の膝頭が音たててふるえるので、私は、電気をつけようと嗄れた声で主張いたしました。そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。『まるで気違いみたいだろう?』ともち・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ツネちゃんは、あいたたと言って膝頭から手を放し、僕のほうに顔をねじ向け、「どうするの?」と小声で言って、悲しそうに笑った。「療養所で手当をしてもらおう。」と言った僕の声は嗄れていた。 ツネちゃんは歩けない様子であった。僕は自分の左脇・・・ 太宰治 「雀」
・・・この時再び家を動かして過ぎ去る風の行えをガラス越しに見送った時、何処とも知れず吹入った冷たい空気が膝頭から胸に浸み通るを覚えた。この時われは裏道を西向いてヨボヨボと行く一人の老翁を認めた。乞食であろう。その人の多様な過去の生活を現わすかのよ・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・浴衣の膝頭に指頭大の穴があいたのを丹念に繕ったのが眼についた。汚れた白足袋の拇指の破れも同じ物語を語っていた。 相場師か請負師とでもいったような男が二人、云い合わせたように同じ服装をして、同じ折かばんを膝の上に立てたり倒したりしながら大・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫