・・・兵衛殿の臨終は、今朝寅の上刻に、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に窶れた頬へ、冷たく涙の痕が見えた。「兵衛――兵衛は冥加な奴でござる。」――甚太夫は口惜しそうに呟いたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・殊に誰か僕の後ろで「御臨終御臨終」と言った時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目していた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言った。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑い出した。 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・若しお前たちの母上の臨終にあわせなかったら一生恨みに思うだろうとさえ書いてよこしてくれたお前たちの叔父上に強いて頼んで、お前たちを山から帰らせなかった私をお前たちが残酷だと思う時があるかも知れない。今十一時半だ。この書き物を草している部屋の・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・お通に申残し参らせ候、御身と近藤重隆殿とは許婚に有之候然るに御身は殊の外彼の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、女ながらも其由のいい聞け難くて、臨終の際まで黙し候さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・もはや臨終だそうである。「頂戴しました。――貰ったぞ。」「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」 と、ありなしの縁に曳かれて、雛妓の小とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑い・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 臨終は明治二十二年九月二十一日であった。牛島の梵雲庵に病んでいよいよ最後の息を引取ろうとするや、呵々大笑して口吟んで曰く、「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれが初めて」と。六十七歳で眠るが如く大往生を遂げた。天王寺墓域・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして梅雨明けをまたずにお定は息を引き取ったが、死ぬ前の日はさすがに叱言はいわず、ただ一言お光を可愛がってやと思いがけぬしんみりした声で言って、あとグウグウ鼾をかいて眠り、翌る朝眼をさましたときはもう臨終だった。失踪した椙のことをついに一言・・・ 織田作之助 「螢」
・・・私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言うものが残っている。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くな・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・あるいは単に臨終の苦痛を想像して、戦慄するのもあるかも知れぬ。 いちいちにかぞえきたれば、その種類はかぎりもないが、要するに、死そのものを恐怖すべきではなくて、多くは、その個々が有している迷信・貪欲・痴愚・妄執・愛着の念をはらいがたい境・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ぬ残り惜しさの妄執に由るのもある、其計画し若くば着手せし事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある、子孫の計未だ成らず、美田未だ買い得ないで、其行末を憂慮する愛着に出るのもあろう、或は単に臨終の苦痛を想像して戦慄するのもあるかも・・・ 幸徳秋水 「死生」
出典:青空文庫