・・・……舟は油の如く平なる海を滑って難なく岸に近づいて来る。舳に金色の髪を日に乱して伸び上るは言うまでもない、クララである。 ここは南の国で、空には濃き藍を流し、海にも濃き藍を流してその中に横わる遠山もまた濃き藍を含んでいる。只春の波のちょ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と囃している。舳へ行って見たら、水夫が大勢寄って、太い帆綱を手繰っていた。 自分は大変心細くなった。いつ陸へ上がれる事か分らない。そうしてどこへ行くのだか知れない。ただ黒い煙を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。その波はすこぶる広・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・幸福というものが、案外にも活気横溢したもので、たとえて見れば船の舳が濤をしのいで前進してゆく、そのときの困難ではあるが快さに似たものだといったら昼寝の仔猫のような姿を幸福に与えようとしている人たちは非常にびっくりするだろうか。 人生に何・・・ 宮本百合子 「幸福の感覚」
・・・艫からメイン・マスト、舳へと一条張られたイルミネーションは遠目に細かく燦めき、海面の夜の濃さを感じさせた。 室へ帰って手帳に物を書いていたら、薄いカーテンに妙に青っぽい閃光が映り、目をあげて外を見ると、窓前のプラタナスに似た街路樹の葉へ・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・追放や苦役に決った囚人がそこに入れられて輸送されているのであった。舳先に歩哨の銃剣が燭火のように光っている。艀舟の中は静寂で月の光が豊かに濯いでいる。ゴーリキイは、昼間の疲れと景色の美しさに恍惚としつつ思うのであった。「善良な人間になりたい・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・下京の町を離れて、加茂川を横ぎったころからは、あたりがひっそりとして、ただ舳にさかれる水のささやきを聞くのみである。 夜舟で寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・浅瀬の波舳に触れて底なる石の相磨して声するようなり。道の傍には細流ありて、岸辺の蘆には皷子花からみつきたるが、時得顔にさきたり。その蔭には繊き腹濃きみどりいろにて羽漆の如き蜻とんぼうあまた飛びめぐりたるを見る。須坂にて昼餉食べて、乗りきたり・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫