・・・分の状態であってみればなおのことその迷妄を捨て切ってしまうこともできず、その結果はあがきのとれない苦痛がますます増大してゆく一方となり、そのはてにはもうその苦しさだけにも堪え切れなくなって、「こんなに苦しむくらいならいっそのこと言ってしまお・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・同情は他人の幸福衝動とともに損われ、ともに苦しむ自分の幸福衝動にほかならぬ。 彼はヘーゲルが概念をもって真の実在としたのをひるがえして、われわれの感官に与えられた自然をもって実在とした。マルクスはさらに進んで意識を自然の反映であるとし、・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 鳴呼、若崎が苦しむのも無理は無い。と思った。が、この男はまだ芸術家になりきらぬ中、香具師一流の望に任せて、安直に素張らしい大仏を造ったことがある。それも製作技術の智慧からではあるが、丸太を組み、割竹を編み、紙を貼り、色を傅けて、インチキ大・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・こんなことで苦しむのはばかげたことかもしれない。が、プルドーンが、そんな時屋根の上にあがり、星を眺め、気を沈め、しばらくそうしてから室に帰り眠るということをきいて、同感だった。同じ気持の人がいるかと思うとうれしかった。 彼は顫えがとまら・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。 おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・まったく、じっさい、その心理を解するに苦しむのみでございます。 しかし、これでも、その次の三番目の女房に較べると、まだよいほうだと言わなければなりませんのでございます。これはもうはじめから、私を苦力のようにこき使う目的を以て私に近づ・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・戸田さんは毎年、秋になると脚気が起って苦しむという事も小説で知っていましたので、私のベッドの毛布を一枚、風呂敷に包んで持って行く事に致しました。毛布で脚をくるんで仕事をなさるように忠告したかったのです。私は、ママにかくれて裏口から、こっそり・・・ 太宰治 「恥」
・・・元来一つであるべきものが無理に二つに引きわけられ、それが一緒になろう/\と悶え苦しむようでもあり、また別れよう/\とするのを恐ろしい力で一つにしよう/\と責め付けられるようでもある。その苦しみはとても名状が出来ぬ。やっとその始末が付いたと思・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・また場合により実験の結果が半ばあるいは部分的に予期に合すれば、実験者たる学者はその適合せる部分だけを抽出して自己の所説を確かむれども、かくのごとき抽象的分析に慣らされざる世俗は了解に苦しむ事もあるべし。 かくのごとき困難は天然現象の場合・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・「姉だけなら来てもらいたいって、家でも言っているんだけれど、何か自分でなまじっかにやろうとするもんだから、かえって苦しむんだ」「誰でもそうや。なかなか思うようにゆくもんじゃないんです。おひろさんだって、森さんのとこへ納まったにしたと・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫