・・・今はただ泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中におのずから車輪をまわしている。…… 保吉は未だにこの時受けた、大きい教訓を服膺している。三十年来考えて見ても、何一つ碌にわからないのはむしろ一生の幸福かも知れない。 三 死・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・すると亜鉛の海鼠板を積んだ荷車が何台も通って行った。「あれはどこへ行く?」 僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」 僕は今度は勢い好く言った。「ブリッ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・昨日の事があったので燕は王子をこの上もないよいかたとしたっておりましたから、さっそく御返事をしますと王子のおっしゃるには、「今日はあの東の方にある道のつきあたりに白い馬が荷車を引いて行く、あすこをごらん。そこに二人の小さな乞食の子が寒む・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ その内別荘へ知らぬ人が来て、荷車の軋る音がした。床の上を重そうな足で踏む響がした。クサカは知らぬ人の顔を怖れ、また何か身の上に不幸の来るらしい感じがするので、小さくなって、庭の隅に行って、木立の隙間から別荘を見て居た。 其処へレリ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 見れば青物を市へ積出した荷車が絶えては続き、街道を在所の方へ曳いて帰る。午後三時を過ぎて秋の日は暮れるに間もあるまいに、停車場の道には向わないで、かえって十二社の方へ靴の尖を廻らして、衝と杖を突出した。 しかもこの人は牛込南町辺に・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――清水谷の奥まで掃除が届く。――梅雨の頃は、闇黒に月の影がさしたほど、あっちこっちに目に着いた紫陽花も、この二、三年こっちもう少い。――荷車のあとには芽ぐんでも、自動車の轍の下には生えまいから、いまは車前草さえ直ぐには見ようたって間に合わ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 太陽はまだ地平線にあらわれないが、隣村のだれかれ馬をひいてくるものもある。荷車をひいてくるものもある。天秤の先へ風呂敷ようのものをくくしつけ肩へ掛けてくるもの、軽身に懐手してくるもの、声高に元気な話をして通るもの、いずれも大回転の波動・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・この道は暗緑色の草がほとんど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った轍の跡が二本走っている。 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地に聳えている。丁度森が歩哨を出して、それ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・こうして、泥濘の中に捨てられた天使は、やがて、その上を重い荷車の轍で轢かれるのでした。 天使でありますから、たとえ破られても、焼かれても、また轢かれても、血の出るわけではなし、また痛いということもなかったのです。ただ、この地上にいる間は・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・そのうちに、とうとう馬は、橋を渡って、重い荷車を引いていってしまいました。このとき、先刻、馬を「かわいそうに。」といった人が、そばの男に向かっていったのです。「人間は、ああして、馬や、牛をずいぶん思いきった使い方をしているが、幸いに馬や・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
出典:青空文庫