・・・更に左手のこのハガキからはずれたところに雪をいただいた日本アルプスが見えます。落日を受けて美しいのはこの遠くかすんだ山々です。田は収穫時です。お湯は一日一度です。どうぞ御安心下さい。〔欄外に〕夜も早ねをして居ります。 十月十二日・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・「創生記」を読み、私は鼻の奥のところに何ともいえぬきつい苦痛な酸性の刺戟を感じた。昔の人は酸鼻という熟語でこの感覚を表現した。更に「地底の墓」「落日の饗宴」とを読み、いくつかの「新人論」を瞥見し、私は、文学に、何ぞこの封建風な徒弟気質ぞ、と・・・ 宮本百合子 「十月の文芸時評」
・・・ 冬の落日が木の梢に黄に輝く時、煉瓦校舎を背に枯草に座った私共が円くなって、てんでに詠草を繰って見た日を。 安永先生が浪にゆられゆられて行く小舟の様に、ゆーらりゆーらりと体をまえうしろにゆりながら、十代の娘の様な傷的な響で、日中に見・・・ 宮本百合子 「たより」
・・・燃えるような落日に森が黒い帯と連っている路を一人の美人が「もうとるかあ」を操縦して馳けている。坐席がびっくりする程高いオープンで、ギヤー・ブレーキ・ハンドルすべてが露出である。エンジンだけが覆われている。ハンドルは坐席に合わせてまるで低いと・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・になって、落日に向って額に手をかざし「眠りこむように目を細め」る主人公が描かれている。 嘉村氏は、転落する地方地主の生活に突入っていわばその骨を刻むように書いているつもりなのであるが、結局その努力も主題を発展的な歴史の光によって把握して・・・ 宮本百合子 「同志小林の業績の評価によせて」
・・・初冬の落日は早くて、五時すぎると上野の森に夕靄がかかりはじめた。西空にうすら明りはあるのに、もう美術学校の黄櫨の梢は、紅を闇に沈めてただ濃く黒いかげと見えるばかりである。婦人閲覧人たちは、殆どみんなこの時刻に帰り仕度をはじめた。わたしも、ふ・・・ 宮本百合子 「図書館」
・・・ やがて、日がだんだん山に近くなって、天地が橙色に霞み山々の緑が薄い鳩羽色で包まれかけると、六は落日に体中照り出されながら、来たとは反対の側から山を下りる。 そして、菫が咲き、清水が湧き出す小溝には沢蟹の這いまわるあの新道を野道へ抜・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 心に痛みをもってゴーリキイは店から抜け出し、悠大なヴォルガの落日を眺めた。本で知った他の都会の生活のこと、風変りな生活をしている外国のこと、地上の大さの感じがいつしかゴーリキイの心を鎮め、彼の周囲でゆっくり単調に煮えている臭いような生・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫