夏目先生は書の幅を見ると、独り語のように「旭窓だね」と云った。落款はなるほど旭窓外史だった。自分は先生にこう云った。「旭窓は淡窓の孫でしょう。淡窓の子は何と云いましたかしら?」先生は即座に「夢窓だろう」と答えた。 ――・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・東洋の画家には未だ甞て落款の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語である。それを特筆するムアアを思うと、坐ろに東西の差を感ぜざるを得ない。 大作 大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 円福寺の画にはいずれも落款がないので椿岳の作たるを忘れられておる。椿岳の洒々落々たる画名を市るの鄙心がなかったのはこれを以ても知るべきである。が、落款があっても淡島椿岳が如何なる画人であるかを知るものは極めて少なく、縦令名を知っていて・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・糊刷毛かなにかでもって書いたものらしく、仰山に肉の太い文字で、そのうえ目茶苦茶ににじんでいた。落款らしいものもなかったけれど、僕はひとめで青扇の書いたものだと断定を下した。つまりこれは、自由天才流なのであろう。僕は奥の四畳半にはいった。箪笥・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・「それが、私は××だと思うんですが、落款がないんです、手に入れた時、夏目さんに見せたら、こりゃあいいと云っていた」 書斎の方に座って、陶器の話などした。私の父がこの頃少し凝りかけていたので、自然そんな方面に向ったものと見える。そんな・・・ 宮本百合子 「狭い一側面」
出典:青空文庫