・・・ このときたちまち、その遠い、寂寥の地平線にあたって、五つの赤いそりが、同じほどにたがいに隔てをおいて行儀ただしく、しかも速やかに、真一文字にかなたを走っていく姿を見ました。 すると、それを見た人々は、だれでも声をあげて驚かぬものは・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・ 仁丹を買うためにパトロンを作った彼女は、煙草も酒も飲まず、酒場のボックスでは果物一つ口にしない行儀のよさが、吉田の学生街のへんに気取ったけちくさいアカデミックな雰囲気に似合っており、容姿にも何かあえかなノスタルジアがあった。 そん・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 鴎外は子供の前で寝そべった姿を見せたことがないというくらい厳格な人だったらしいから、書見をされる時も恐らく端坐しておられたことであろうと思われるが、僕は行儀のわるいことに、夜はもちろん昼でも寝そべらないと本が読めない。従って赤鉛筆で棒・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・彼はむずかしい顔して、行儀よく坐ったが、「君のところへは案内状が行ったかね?」と、私は訊いた。「いや来ない……」「ふーむ」と言った彼は頤のあたりを撫で廻して、いっそうまた気むずかしく考えこんだ風であったが、やがて顔をあげて、笹川・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・「こんな御行儀の悪いことをして。わたしははずかしい」 私は笑えなくなってしまいました。前晩の寐不足のため変に心が誘われ易く、物に即し易くなっていたのです。私はそれを感じました。そして少しの間不快が去りませんでした。気軽にOにそのことを云・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・種善院様も非常に厳格な方で、而も非常に潔癖な方で、一生膝も崩さなかったというような行儀正しい方であったそうですが、観行院様もまた其通りの方であったので、家の様子が変って人少なになって居るに関わらず、種善院様の時代のように万事を遣って往こうと・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・「行儀がわるい」女は下から龍介を見上げた。「寒いんだよ。それより、君はこれを敷け」彼は女に座布団を押してやった。が、女は「いいの」と言って、押しかえしてよこした。「――冷えるぜ」「どうせねえ」そして、すすめるとまた「いいの」・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。 また、こんな話も聞いた。 どんなに永いこと散歩しても、それでも物たりなかったという。ひとけなき夜の道。女は、息もたえだえの思いで、幾・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・なんというか、まあ、お宅のような大家にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちがいましてな」すこし顔を赤くして笑い、「おかげさまでした。お慶も、あなたのお噂、しじゅうして居ります。こんどの公休には、きっと一緒にお礼にあがります」急に真面・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・ 新開地を追うて来て新たに店を構えた仕出し屋の主人が店先に頬杖を突いて行儀悪く寝ころんでいる目の前へ、膳椀の類を出し並べて売りつけようとしている行商人もあった。そこらの森陰のきたない藁屋の障子の奥からは端唄の三味線をさらっている音も聞こ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
出典:青空文庫