一 十一月に入ると、北満は、大地が凍結を始める。 占領した支那家屋が臨時の営舎だった。毛皮の防寒胴着をきてもまだ、刺すような寒気が肌を襲う。 一等兵、和田の属する中隊は、二週間前、四平街を出発し・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・漠然とした不安の念が、憂鬱な想像に混って、これから養生園の方へ向おうとするおげんの身を襲うように起って来た。町に遊んでいた小さな甥達の中にはそこいらまで一緒に随いて来るのもあった。おげんは熊吉の案内で坂の下にある電車の乗場から新橋手前まで乗・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて来る。沖の奥は真暗で、漁火一つ見えぬ。湿りを帯びた大きな星が、見え隠れ雲の隙を瞬く。いつもなら・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・近年急に襲うて来た「改造」のあらしのために、わが国の人の心に自然なあらゆるものが根こぎにされて、そのかわりにペンキ塗りの思想や蝋細工のイズムが、新開地の雑貨店や小料理屋のように雑然と無格好に打ち建てられている最中に、それほどとも思われぬ天然・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・活力の満ちた、しめっぽい熱帯の空気が鼻のあなから脳を襲う。椰子の木や琉球の芭蕉などが、今少し延びたら、この屋根をどうするつもりだろうといつも思うのであるが、きょうもそう思う。ハワイという国には肺病が皆無だとだれかの言った事を思い出す。妻は濃・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・力強い自然の旺盛な気が脳を襲うように思われた。この花の散る窓の内には内気な娘がたれこめて読み物や針仕事のけいこをしているのであった。自分がこの家にはじめて来たころはようよう十四五ぐらいで桃割れに結うた額髪をたらせていた。色の・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・そういう場合に債権者は債務者の不意を襲うてその身辺に円を画く。すると後者はその債務を果たすまでその円以外に踏み出す事が出来ない。もし出れば死刑に処せられる。 こういう法律は今日では賛成者が少なそうに思われる。債務者の方が多数だから。・・・ 寺田寅彦 「マルコポロから」
・・・それを逃れたとしても必然に襲うて来る春寒の脅威は避け難いだろう。そうすると罎を出るのも考えものかもしれない。 過去の旅嚢から取り出される品物にはほとんど限りがない。これだけの品数を一度に容れ得る「鍋」を自分は持っているだろうか。鍋はある・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・之に反して、昭和当代の少年の夢を襲うものは抑も何であろう。民衆主義の悪影響を受けた彼等の胸中には恐怖畏懼の念は影をだも留めず、夢寐の間にも猶忘れざるものは競争売名の一事のみである。聞くところによれば現代の小学生は小遣銭を運動費となして、級長・・・ 永井荷風 「巷の声」
出典:青空文庫