・・・ 高き室の正面に、石にて築く段は二級、半ばは厚き毛氈にて蔽う。段の上なる、大なる椅子に豊かに倚るがアーサーである。「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、床几の上に、纎き指を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに坂を蔽うているから、昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・そうすると杉の枝が天を蔽うて居るので、月の光は点のように外に漏れぬから、暗い道ではあるが、忽ち杉の木の隙間があって畳一枚ほど明るく照って居る。こんな考から「ところどころ月漏る杉の小道かな」とやったが、余り平凡なのに自ら驚いて、三たび森沿い小・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ その式場を覆う灰色の帆布は、黒い樅の枝で縦横に区切られ、所々には黄や橙の石楠花の花をはさんでありました。何せそう云ういい天気で、帆布が半透明に光っているのですから、実にその調和のいいこと、もうこここそやがて完成さるべき、世界ビジテリア・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・木が生えていなければ、きっと青々草が生えて地面を被うている。それだのに、たった一箇所、雑草も生えていなければ木もなくむき出しのところがあった。それは例の、三方羽目に塞がれた空地だ。そこのがらんとした寂しい地面の有様が子供の心をつよく動かした・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ けれ共、その心を探り入って見た時に、未だ若く、歓に酔うて居る私共でさえ面を被うて、たよりない涙に※ぶ様になる程であるか。 私は静かに目を瞑って想う。 順良な、素直な老いた母は、我子等の育い立ちを如何ほど心待って居る事であろう。・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・氷河が太古に地球の半を包んだように、何千万年かの後にはまた地球をひろく被うようになるかもしれない。しかし、そうなれば、人間は南へ移住することができる、とコフマンはいっている。この言葉はわかりやすい簡単な言葉だけれども、これだけの一句にも、や・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
・・・小径を両側から覆うている松の姿をながめた。何という微妙な光がすべての物を包んでいることだろう。私は急に目覚めた心持ちであたりを見回した。私の斜めうしろには暗い枝の間から五日ばかりの月が幽かにしかし鋭く光っている。私の頭の上にはオライオン星座・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
・・・彼のメフィストは否定の矢をただ偽善者の上に――臭いものを覆うた蓋の上に――のみ向けるのである。彼は破壊を喜ぶが、しかし真に善きもの美しきものを破壊しようとはしない。いわば正義の騎士に商売換えをしたメフィストである。従ってこのメフィストはファ・・・ 和辻哲郎 「転向」
ある男が祖父の葬式に行ったときの話です。 田舎のことで葬場は墓地のそばの空地を使うことになっています。大きい松が二、三本、その下に石の棺台、――松の樹陰はようやく坊さんや遺族を覆うくらいで、会葬者は皆炎熱の太陽に照りつけられながら・・・ 和辻哲郎 「土下座」
出典:青空文庫