・・・ 十二、視力の好き事。一しょに往来を歩いていると、遠い所の物は代りに見てくれる故、甚便利なり。 十三、絵や音楽にも趣味ある事。但しどちらも大してはわからざる如し。 十四、どこか若々しき所ある事。 十五、皮肉や揚足取りを云わぬ・・・ 芥川竜之介 「彼の長所十八」
・・・僕は又はじまったなと思い、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかった。しかし右の目の瞼の裏には歯車が幾つもまわっていた。僕は右側のビルディングの次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・あの特異な自然を活かして働かすような詩人的な徹視力を持つ政治家は遂にあの土地には来てくれないのだろうか。 最初の北海道の長官の黒田という人は、そこに行くと何といっても面白いものを持っていたようだ。あの必要以上に大規模と見える市街市街の設・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・が、既に右眼の視力を奪われたからには、霜を踏んで堅氷到るで、左眼もまたいつ同じ運命に襲われるかも計り難いのは予期されるので、決して無関心ではいられなかったろう。それにもかかわらず絶倫の精力を持続して『八犬伝』以外『美少年録』をも『侠客伝』を・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
僕は視力が健全である。これはありがたいものに思っている。むしろ己惚れている。 己惚れの種類も思えば数限りないものである。人は己惚れが無くてはさびしくて生きておれまい。よしんばそれが耳かきですくう程のささやかな己惚れにせよ、人は・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・恢復した視力でやっとアパートの灯が見える。裏口の裸電燈だ。その灯の下に誰かが佇んでいそうに思われる。いきなりその灯がすっと遠ざかって行く。かと思うと、また引き戻して来る。だんだん近づいて来る。四尺にも足りないちいさな老婆がその灯を持ってとぼ・・・ 織田作之助 「道」
・・・私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・それはとにかく、この男の子が鳥目で夜になると視力が無くなるというので、「黒チヌ」という魚の生き胆を主婦が方々から貰って来ては飲ませていた。一種のビタミン療法であろうと思われる。見たところ元気のいい子で、顔も背中も渋紙のような色をして、そして・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・すなわちかりにここに微小な人間があって物質分子の間に立ち交じり原子内のエレクトロンの運動を目睹しているがその視力は分子距離以外に及ばぬと想像する。このような人間の力学が吾人のと同様であれば吾人の原子的現象の説明は比較的容易であろうが、実際素・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・ともかくも白髪と視力聴力の衰兆とこれだけの実証はどうする事も出来ない。これだけの通行券を握って私は初老の関所を通過した。そしてすぐ眼の前にある厄年の坂を越えなければならなかった。 厄年というものはいつの世から称え出した事か私は知らない。・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
出典:青空文庫