・・・しかしとにかく顔馴染みに対する親しみだけは抱いていた。だから時たまプラットフォオムにお嬢さんの姿を見ないことがあると、何か失望に似たものを感じた。何か失望に似たものを、――それさえ痛切には感じた訣ではない。保吉は現に売店の猫が二三日行くえを・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 看護婦と慎太郎とは、親しみのある視線を交換した。「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。だがちっとは長びくだろうし、床上げの時分は暑かろうな。こいつは一つ赤飯の代りに、氷あずきでも配る事にするか。」 賢造の冗談をきっかけ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ こころ満ちたる者は親しみがたしといえば、少し悪い意味にとらるる恐れがあるけれど、そういう毒をふくんだ意味でなく公明な批判的の意味でみて、人生上ある程度以上に満足している人には、深く人に親しみ、しんから人を懐しがるということが、どうして・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・ お繁さんは東京の某女学校を卒業して、帰った間もなくで、東京なつかしの燃えてる時であったから、自然東京の客たる予に親しみ易い。一日岡村とお繁さんと予と三人番神堂に遊んだ。お繁さんは十人並以上の美人ではないけれど、顔も姿もきりりとした関東・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 友人にでも出会ったら大変と、親しみのある東京の往来を、疎く、気恥かしいように進みながら、僕は十数年来つれ添って来た女房を売りに行くのではないかという感じがあった。 僕は再び国府津へ行かないで――もし行ったら、ひょッとすると、旅の者・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・真の大衆は、最も彼等の生活に親しみのある。いろ/\な真実の言葉を聞こうと欲するにちがいない。常識にまで低下して、何等の詩なく、感激なき作品が、たゞ面白いというだけで、また取りつき易いというだけでは、彼等と雖も、決して、これをいゝとは思ってい・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・ 賢一は、こうした子供たちを見るにつけ、もはや、ときどきは、しぐれと混じって降るであろう故郷の村に、毎日学校へ集まってくる親しみ深い生徒らの姿を目に浮かべました。「こちらは、こんなにいい天気だのになあ。」と、同じ太陽でありながら、その地・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ ほどもなく立ち昇る湯気に包まれて出で来たりし二人は、早や打ち解けて物言い交わす中となりぬ。親しみやすき湯治場の人々の中にも、かかることに最も早きは辰弥なり。部屋へと二人は別れ際に、どうぞチトお遊びにおいで下され。退屈で困りまする。と布・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・別荘へは長男の童が朝夕二度の牛乳を運べば、青年いつしかこの童と親しみ、その後は乳屋の主人とも微笑みて物語するようになりぬ。されど物語の種はさまで多からず、牛の事、牛乳の事、花客先のうわさなどに過ぎざりき。牛乳屋の物食う口は牛七匹と人五人のみ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
出典:青空文庫