・・・ 訪ねる人は不在であった。 兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。「ほ・・・ 太宰治 「葉」
・・・それがこっちから訪ねる場合は、何時でも随意に別れることが出来るのである。この「告別の権利」が、自分になくって来客の手にあるということほど、客に対して僕を腹立たしくすることはない。 一体に交際家の人間というものは、しゃべることそれ自身に興・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・と訪ねるのではない。母親がそのときは一太の手をひいて玄関から、「今日は、御免下さい」と、お客になって行くのであった。一太が一々覚えていない程、その玄関はいろいろで――大きかったり小さかったりで――あったが、その玄関が等しくツメオ・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 又明日訪ねる約束をして栄蔵は幾分か軽い、頼り処の出来た様な気持になって、お君への草花を買うとすぐ家へ帰った。 一番待ち兼ねて居た様な様子をしてお金は顔を見るなり飛び出した様な声で、 どうでしたえと云った。 ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 母がお孝さんと近くに呼ぶひとを、私はそういう心理から、古田中さんという学生っぽい呼びかたで呼び、格別お宅を訪ねるということもなく、親切なことづけを母からきいているばかりで、何年も経た。 考えてみると、母は風変りめいたところがあっと・・・ 宮本百合子 「白藤」
・・・種々な人間が、天平、弘仁の造形美術の傑作を研究し、観賞しに奈良を訪ねる。本当の芸術愛好家なら、仏教の信仰をそのものとして奉持しなくても、美から来る霊的欽仰を仏像とその作者とに対して抱かずにはおられない。彼等は感歎し、讚美する。端厳微妙な顔面・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・また俥にのって私は帰って来たきり、手紙も出さず、再び訪ねる機会もなかった。若しかしたら、芥川さんは最後まで、私のこの訪問を御存じなかったかもしれません。会で話したとき、私の心に触れる人間的なものがあった証拠だったと思います。 また或・・・ 宮本百合子 「田端の坂」
・・・時間のある処へ訪ねるのでもない。ただ歩いている――幸福でなく、異様にあてどない空虚な空気に包まれながら、歩いてゆく。私は、その女の感情がありあり分るようで、少しせつない気がした。 一寸した買物をしているうちに私共はその女の姿を見失った。・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・臼杵から先、中津の自性寺を見、福岡の友でも訪ねるか、いずれにせよ、軽少の財嚢に準じて謙遜な望みしか抱いていなかった。臼杵の、日向灘を展望する奇麗な公園からK氏の別荘へぶらぶら帰る時であった。Y、「どうする? やはり中津へ廻る?」「――ふうむ・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・インドの衛生状態にも彼女の関心が向けられ、長年の間、新任印度総督はその出発前にナイチンゲールを訪ねるのが習慣であった。 このインドの衛生問題について、私たちに多くのことを教える一插話がつたえられている。それは、インドにおける彼女の影・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
出典:青空文庫