・・・そこの梅の老木の枝ぶりも、私には誘惑だった。私はコソコソと往きとは反対の盗み足で石段を帰ってきたが、両側の杉や松の枝が後ろから招いてる気がして、頸筋に死の冷めたい手触りを感じた。……「で、ゆうべあんなことで、ついフラフラとあの松の枝・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。「街では自分は苦しい」 北には加茂の森が赤い鳥居を点じていた。その上に遠い山・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・電燈の光が透いて見えるその葉うらの色は、私が夜になれば誘惑を感じた娘の家の近くの小公園にもあったのです。私はその娘の家のぐるりを歩いてはその下のベンチで休むのがきまりになっていました。(私の美に対する情熱が娘に対する情熱と胎を共にした双・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 誘惑 悪い方面をあげれば、肉慾狩猟や、「軽薄」のほかに「女たらし」と呼ばれる詐偽的情事がある。すなわち将来学士となるという優越条件を利用して、結婚を好餌として女性を誘惑することだ。これは人間として最も卑怯な、恥・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ かくいい放って誘惑を一蹴した。時宗が嘆じて「ああ日蓮は真に大丈夫である。自ら仏使と称するも宜なる哉」とついに文永十一年五月宗門弘通許可状を下し、日蓮をもって、「後代にも有り難き高僧、何の宗か之に比せん。日本国中に宗弘して妨げあるべから・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 次郎や、末子をそばに置いて、私は若いさかりの子供らが知らない貯蓄の誘惑に気を腐らした。あるところにはあり過ぎるような金から見たら、おそらく二万円ぐらいはなんでもないかもしれない。しかし、ないところにはなさ過ぎる金から見たら、それだけま・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・このテーマについては、私はもっともっと書きたく、誘惑せられる。 次々と思い出が蘇える。井伏さんは時々おっしゃる。「人間は、一緒に旅行をすると、その旅の道連れの本性がよくわかる。」 旅は、徒然の姿に似て居ながら、人間の決戦場かも知・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・「や、美人を雇いやがった。こいつあ、凄い」 と客のひとりが言いました。「誘惑しないで下さいよ」とご亭主は、まんざら冗談でもないような口調で言い、「お金のかかっているからだですから」「百万ドルの名馬か?」 ともうひとりの客・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・その末はいつとなく模糊たる雲煙の中に没しているのが誘惑的である。ちょっと見ると一と息で登れそうな気がするが、上り口の立て札には頂上まで五時間を要し途中一滴の水もないと書いてある。誘惑にはうっかり乗れない。 第一日には頂上までの五分の一だ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・はこのからを肯定しようとする強い誘惑を醸成する。 その後、出入りの魚屋の証言によって近所のA家にもやはり白い洋種の猫がいるという一つの新しい有力なデータを加えることは出来た。しかし、東京中で西洋猫を飼っているA姓の人が何人あるか不明であ・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
出典:青空文庫