・・・三十分汽車に揺られた後、さらにまた三十分足らず砂埃りの道を歩かせられるのは勿論永久の苦痛である。苦痛?――いや、苦痛ではない。惰力の法則はいつのまにか苦痛という意識さえ奪ってしまった。彼は毎日無感激にこの退屈そのものに似た断崖の下を歩いてい・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 四百トン足らずの襤褸船に乗って、私は釧路の港を出た。そうして東京に帰ってきた。 帰ってきた私は以前の私でなかったごとく、東京もまた以前の東京ではなかった。帰ってきて私はまず、新らしい運動に同情を持っていない人の意外に多いのを見て驚・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、駈け戻りました。これが間違いでございました。」 声も、言も、しばらく途絶えた。「裏土塀から台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと天狗星の落ちたような音がしました・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・独り他人を軽侮し冷笑するのみならず、この東洋文人を一串する通弊に自ずから襯染していた自家の文学的態度をも危ぶみかつ飽足らず思うて而して「文学には必ず遊戯的分子がある、文学ではドウシテモ死身になれない」という。近代思想を十分理解しながら近代人・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・いわゆる月足らずで、世間にありがちな生れだったけれど、よりによって生れる十月ほど前、落語家の父が九州巡業に出かけて、一月あまり家をあけていたことがあり、普通に日を繰ってみて、その留守中につくった子ではないかと、疑えば疑えぬこともない。それか・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・彼等は金儲けのためには義理人情もない云々と書き立て、――それに比べると川那子丹造鑑製の薬は……と、ごたくを並べ、甚しきは医者に鬼の如き角を生やした諷刺画まで掲載し、なお、飽き足らずに「売薬業者は嘘つきの凝結」などと、同業者にまで八つ当った…・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・僕はこんどの読売では、今まで一時間足らずで書けた一回分にまる一晩費している。題を決めるのに一日、構想を考えるのに一日、たのまれてから書き出すまでに二日しか費さなかったぐらいだから、安易な態度ではじめたのだが、八九回書き出してから、文化部長か・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦で払う肚を決めていた。「私が親爺に無心して払いまっさ」と柳吉も黙っているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」と手を振った。「あんさんのお父つぁんに都合が悪うて、私は顔・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 足をばたばたやって大声を上げて泣いて、それで飽き足らず起上って其処らの石を拾い、四方八方に投げ付けていた。 こう暴れているうちにも自分は、彼奴何時の間にチョーク画を習ったろう、何人が彼奴に教えたろうとそればかり思い続けた。 泣・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ 水車場を過ぎて間もなく橋あり、長さよりも幅のかた広く、欄の高さは腰かくるにも足らず、これを渡りてまた林の間を行けばたちまち町の中ほどに出ず、こは都にて開かるる洋画展覧会などの出品の中にてよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋と瓦屋と打ち・・・ 国木田独歩 「わかれ」
出典:青空文庫