・・・さて百姓は蹣跚きながら我家に帰った。永い間女房を擲って居た。そうしてたった一週間前に買って遣った頭に被る新しい巾を引き裂いた。 それからこの犬は人間というものを信用しなくなって、人が呼んで摩ろうとすると、尾を股の間へ挿んで逃げた。時々は・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 半蔵門の方より来たりて、いまや堀端に曲がらんとするとき、一個の年紀少き美人はその同伴なる老人の蹣跚たる酔歩に向かいて注意せり。渠は編み物の手袋を嵌めたる左の手にぶら提灯を携えたり。片手は老人を導きつつ。 伯父さんと謂われたる老人は・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・国民学校教師、野中弥一、酔歩蹣跚の姿で、下手より、庭へ登場。右手に一升瓶、すでに半分飲んで、残りの半分を持参という形。左手には、大きい平目二まい縄でくくってぶらさげている。 奥田せんせい。やあ、いるいる。おう、菊代さんもいる・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・円タクで白山坂上にさしかかると、六十恰好の巌丈な仕事師上がりらしい爺さんが、浴衣がけで車の前を蹣跚として歩いて行く。丁度安全地帯の脇の狭い処で、車をかわす余地がない。警笛を鳴らしても爺さんは知らぬ顔で一向によける意志はないようである。安全地・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・品行が方正でないというだけなら、まだしもだが、大に駄々羅遊びをして、二尺に余る料理屋のつけを懐中に呑んで、蹣跚として登校されるようでは、教場内の令名に関わるのは無論であります。だからいかな長所があっても、この長所を傷ける短所があって、この短・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・僕の五官は疫病にでも取付かれたように、あの女子のために蹣跚いてただ一つの的を狙っていた。この的この成就は暗の中に電光の閃くような光と薫とを持っているように、僕には思われたのだ。君はそれを傍から見て後で僕に打明てこう云った。あいつの疲れたよう・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・父は周章てて包みを高くさし上げ体を避けようとする拍子に、ぎごちなく蹣跚いた。その身のこなしがいかにも臆病な老人らしく、佐和子は悲しかった。彼女は急いで、「ポチ! ポチ!」と出鱈目の名を呼び立てた。ポチは、砂を蹴って父の傍から離れると・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
出典:青空文庫