・・・それだからというて別に彼らを慰めてやる方法もないので困って居た所が、この正月に碧梧桐が近所へ転居して来たので、その妻君や姉君が時々見舞われるのは、内の女どもにとりてはこの上もない慰みになるようになった。殊に三月の末であったか、碧梧桐一家の人・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ぼくはあの図を出して先生に直してもらったら次の日曜に高橋君を頼んで僕のうちの近所のをすっかりこしらえてしまうんだ。僕のうちの近くなら洪積と沖積があるきりだしずっと簡単だ。それでも肥料の入れようやなんかまるでちがうんだから。いまならみんな・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・「――部屋貸しをするところあるかしらこの近所に」 ふき子は、びっくりしたように、「あら本気なの、陽ちゃん」といった。「本気になりそうだわ――ある? そんな家……もし本当にさがせば」「そりゃあってよ、どこだって貸すわ、・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・舌の戦ぎというのは、ロオマンチック時代のある小説家の云った事で、女中が主人の出た迹で、近所をしゃべり廻るのを謂うのである。 木村は何か読んでしまって、一寸顔を蹙めた。大抵いつも新聞を置くときは、極 apathique な表情をするか、そ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・悲しげな女の目には近所の人達の詞に同意する表情が見えた。そしてこう云った。「難有うございます。皆さんが御親切になすって下すって難有うございます。」ユリアはまだその上にこう云った。「警部さん。あなたはこうなった方が、かえってよいかも知れないと・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 母は灸を抱いて直ぐ近所の医者の所へ馳けつけた。医者は灸の顔を見ると、「アッ。」と低く声を上げた。灸は死んでいた。 その翌日もまた雨は朝から降っていた。街へ通う飛脚の荷車の上には破れた雨合羽がかかっていた。河には山から筏が流れて来た・・・ 横光利一 「赤い着物」
東京の郊外で夏を送っていると、時々松風の音をなつかしく思い起こすことがある。近所にも松の木がないわけではないが、しかし皆小さい庭木で、松籟の爽やかな響きを伝えるような亭々たる大樹は、まずないと言ってよい。それに代わるものは欅の大樹で、・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫