・・・自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」 オルガンティノは吐息をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔に落ちた、仄白い桜の花を捉えた。桜! オルガンティノは・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・こんなに泣かれてはいよいよ家を逃れ出る時にはどうしたらいいだろうと思った床の中の心配は無用になった。沈んではいるがしゃんと張切った心持ちになって、クララは部屋の隅の聖像の前に跪いて燭火を捧げた。そして静かに身の来し方を返り見た。 幼い時・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・花を抱く 飄零暫く寓す神仙の宅 禍乱早く離る夫婿の家 頼ひに舅姑の晩節を存するあり 欣然寡を守つて生涯を送る 犬田小文吾夜深うして劫を行ふ彼何の情ぞ 黒闇々中刀に声あり 圏套姦婦の計を逃れ難し 拘囚未だ侠夫の名を損ぜず 対牛・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・彼の祖先は有名なるユグノー党の一人でありまして、彼らは一六八五年信仰自由のゆえをもって故国フランスを逐われ、あるいは英国に、あるいはオランダに、あるいはプロイセンに、またあるいはデンマークに逃れ来りし者でありました。ユグノー党の人はいたると・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 人間は苦悩に遭遇した時、「いつこの悩みから逃れられるのか?」と、恰もそれが永久に負わされた悩みでもあるかのように転々反側するけれど、ものには限度のあるもので、その後には必ず喜びが来る。まして人間は忘却と云うものを有っている。忘却は総て・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・ もし、芸術が、現実生活の描写であり、批評であるなら、何を好んで、彼等はこれを逃れて独善的享楽に行こうとするのか? 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・ その日の午後、授業時間が終わって学校から帰るときに、甲・丙・丁は、いちはやく逃れて帰ることができました。けれど、乙だけは太郎と約束をしたので逃げて帰ることができずに、ついに太郎といっしょに帰ることになりました。 乙は太郎がどんなこ・・・ 小川未明 「雪の国と太郎」
・・・彼はそのせせこましい展望を逃れて郊外へ移った。そこは偶然にも以前住んだことのある町に近かった。霜解け、夕凍み、その匂いには憶えがあった。 ひと月ふた月経った。日光と散歩に恵まれた彼の生活は、いつの間にか怪しい不協和に陥っていた。遠くの父・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・こうなっては何もかも妻に打明けて、この先のことも相談しよう、そうすれば却って妻と自分との間の今の面白ろくない有様から逃れ出ることも出来ると、急いで宅に帰った。 何故そんならば革包を拾って帰った時に相談しなかった。と問うを止めよ。大河今蔵・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・文明の結果で飾られていても、積み上げた石瓦の間にところどころ枯れた木の枝があるばかりで、冷淡に無慈悲に見える町の狭い往来を逃れ出て、沈黙していながら、絶えず動いている、永遠なる自然に向って来るのである。河は数千年来層一層の波を、絶えず牧場と・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫