・・・これを過ぐれば左に鳰の海蒼くして漣水色縮緬を延べたらんごとく、遠山模糊として水の果ても見えず。左に近く大津の町つらなりて、三井寺木立に見えかくれす。唐崎はあの辺かなど思えど身地を踏みし事なければ堅田も石山も粟津もすべて判らず。九つの歳父母に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 寺門静軒が『江頭百詠』を刻した翌年遠山雲如が『墨水四時雑詠』を刊布した。雲如は江戸の商家に生れたが初文章を長野豊山に学び、後に詩を梁川星巌に学び、家産を蕩尽した後一生を旅寓に送った奇人である。晩年京師に留り遂にその地に終った。雲如の一・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ ここは南の国で、空には濃き藍を流し、海にも濃き藍を流してその中に横わる遠山もまた濃き藍を含んでいる。只春の波のちょろちょろと磯を洗う端だけが際限なく長い一条の白布と見える。丘には橄欖が深緑りの葉を暖かき日に洗われて、その葉裏には百千鳥・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・第一回が発表されはじめたこと、遠山葉子氏が西鶴、近松の描いた女性について、元禄文学の科学的批判に着手されていることなど、号を追うて注意をひきつけるものがある。 文化綜合雑誌として目下われわれは『文化集団』『知識』『生きた新聞』『進歩・・・ 宮本百合子 「新年号の『文学評論』その他」
・・・半腹に鳳山亭としたる四阿屋の簷傾きたるあり、長野辺まで望見るべし。遠山の頂には雪を戴きたるもあり。このめぐりの野は年毎に一たび焚きて、木の繁るを防ぎ、家畜飼う料に草を作る処なれば、女郎花、桔梗、石竹などさき乱れたり。折りてかえりて筒にさしぬ・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・ はや下ななつさがりだろう、日は函根の山の端に近寄ッて儀式とおり茜色の光線を吐き始めると末野はすこしずつ薄樺の隈を加えて、遠山も、毒でも飲んだかだんだんと紫になり、原の果てには夕暮の蒸発気がしきりに逃水をこしらえている。ころは秋。そここ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えら・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫