・・・それから麦酒樽の天水桶の上に乾し忘れたままの爪革だった。それから、往来の水たまりだった。それから、――あとは何だったにせよ、どこにも犬の影は見なかった。その代りに十二三の乞食が一人、二階の窓を見上げながら、寒そうに立っている姿が見えた。・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・一樽一万円の酒樽も売っているのだ。「人を驚かせるが、自分は驚かないのが、ダンデイの第一条件だ」 という意味のことをボードレエルが言っているが、私たちはこの意味でのダンデイになることが、さしあたって狂人にならないための第一条件ではある・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・血は血管の中で螺旋して流れているのだよ。酒樽の口から酒は螺旋して出るよ。腸は即ち螺線をなしてるのサ。川はやや平面的に螺線をなして流れる。山脈は螺線さ。木の枝は一つが東に向ッて生える、その上の枝は南それから西北という工合に螺旋している。花を能・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・さまざま駄々をこねて居たようですが、どうにか落ち附き、三島の町はずれに小ぢんまりした家を持ち、兄さんの家の酒樽を店に並べ、酒の小売を始めたのです。二十歳の妹さんと二人で住んで居ました。私は、其の家へ行くつもりであったのです。佐吉さんから、手・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・試みに豊国の酒樽を踏み台にして桜の枝につかまった女と、これによく似た春信の傘をさして風に吹かれる女とを比較してみればすべてが明瞭になりはしないか。後者において柳の枝までが顔や着物の線に合わせて音楽を奏しているのに、おそらく同じつもりでかいた・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・前夜の夕刊に青森県大鰐の婚礼の奇風を紹介した写真があって、それに紋付き羽織袴の男装をした婦人が酒樽に付き添って嫁入り行列の先頭に立っている珍妙な姿が写っている。これが自分の和服礼装に変相し、婚礼が法事に翻訳されたのかもしれない。紫色の服を着・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・おけいちゃんの家は酒樽の呑口をこしらえるのが商売であった。 女学校の試験なんか出来ない筈はないのに、おけいちゃんはどうしてか通らなかった。小学校の卒業のときは、総代で、東京市の優秀児童ばかりを集めた日比谷の表彰式で、市長からの賞品を貰っ・・・ 宮本百合子 「なつかしい仲間」
・・・親父がぴょこぴょこお辞儀をして、酒樽の鏡を抜いて馳走をしたもんだから、拍子抜がして素直に帰って行きゃあがった。ところが二三日するとまた遣って来やがった。倅の方は利かねえ気の奴だったから、野猪狩に持って行く鉄砲を打ち掛けた。そうすると奴共慌て・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
出典:青空文庫