・・・が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。「この国の風景は美しい――。」 オルガンティノは反省した。「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面の小人よりも、まだしも黒ん・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・しかしふだんは重苦しい眠が、――それ自身悪夢のような眠が、間もなく彼女の心の上へ、昏々と下って来るのだった。 二「どうしたんですよ? その傷は。」 ある静かな雨降りの夜、お蓮は牧野の酌をしながら、彼の右の頬・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・しかし目のあたりに見た事実は容易にその論理を許さぬほど、重苦しい感銘を残していた。 けれどもプラットフォオムの人々は彼の気もちとは没交渉にいずれも、幸福らしい顔をしていた。保吉はそれにも苛立たしさを感じた。就中海軍の将校たちの大声に何か・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを味うと共に、こう云う疑問もまた挟・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・が、ミスラ君がその花を私の鼻の先へ持って来ると、ちょうど麝香か何かのように重苦しいさえするのです。私はあまりの不思議さに、何度も感嘆の声を洩しますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作にその花をテエブル掛の上へ落しました。勿論落すとも・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・座敷の縁側を通り過ぎて陰気な重苦しい土蔵の中に案内されると、あたかも方頷無髯の巨漢が高い卓子の上から薄暗いランプを移して、今まで腰を掛けていたらしい黒塗の箱の上の蒲団を跳退けて代りに置く処だった。 一応初対面の挨拶を済まして部屋の四周を・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・だから今、かりに自分の頭には灰色な、重苦しい感情しかないからといって、この気分で見るすべてのものが、今は、眼底に灰色なものとなってうつるからといって此の世界が灰色であり、此の人生が灰色でなければならぬと思うものは少なかろうと思う。 曾て・・・ 小川未明 「忘れられたる感情」
朝からどんより曇っていたが、雨にはならず、低い雲が陰気に垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走っていた。午後になると急に暗さが増して行った。しぜん人も馬も重苦しい気持に沈んでしまいそうだったが、しかしふと通り魔が過ぎ去った跡のような虚しい慌し・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ということを急に自覚したのにもよるが、それと同時にそこまで退引きのならぬように追求して来る執拗な女の態度が急に重苦しい圧迫を吉田に感じさせたからだった。そして吉田はうっかりカッとなってしまって、「もうそれ以上は言わん」 と屹と相手を・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・さっそく電髪屋に行って、髪の手入れも致しましたし、お化粧品も取りそろえまして、着物を縫い直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに拭い去られた感じでした。 朝起きて坊やと二人で・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫