・・・頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬んでいる。 爺いさんは穹窿の下を、・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ある、春も初春でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度桜花が爛と咲き乱れて、稍々散り初めようという所だ、遠く霞んだ中空に、美しくおぼろおぼろとした春の月が照っている晩を、両側に桜の植えられた細い長い路を辿るような趣がある。約言すれば、・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・ わたくしは隙見をいたしました。長い、長い間わたくしはあの硝子戸の傍に立ってあなたを見ていました。あなたの方からは見えませんのですが、わたくしは暗い方にいましたからあなたをはっきり見ることが出来ました。決してわたくしが陰険な事をいたした・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ほんに君と僕とは大分長い間友人と呼び合ったのだ。ははあ、何が友人だ。君が僕と共にしたのは、夜昼とない無意味の対話、同じ人との交際、一人の女を相手にしての偽りの恋に過ぎぬ。共にしたとはいうけれど、譬えば一家の主僕がその家を、輿を、犬を、三度の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
○長い長い話をつづめていうと、昔天竺に閼伽衛奴国という国があって、そこの王を和奴和奴王というた、この王もこの国の民も非常に犬を愛する風であったがその国に一人の男があって王の愛犬を殺すという騒ぎが起った、その罪でもってこの者は死刑に処せら・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ すると森の奥から、まっくろな手の長い大きな大きな男が出て来て、まるでさけるような声で云いました。「何だと。おれをぬすとだと。そう云うやつは、みんなたたき潰してやるぞ。ぜんたい何の証拠があるんだ。」「証人がある。証人がある。」と・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
宮本顕治には、これまで四冊の文芸評論集がある。『レーニン主義文学闘争への道』『文芸評論』『敗北の文学』『人民の文学』。治安維持法と戦争との長い年月の間はじめの二冊の文芸評論集は発禁になっていた。著者が十二年間の獄中生活から・・・ 宮本百合子 「巖の花」
市が立つ日であった。近在近郷の百姓は四方からゴーデルヴィルの町へと集まって来た。一歩ごとに体躯を前に傾けて男はのそのそと歩む、その長い脚はかねての遅鈍な、骨の折れる百姓仕事のためにねじれて形をなしていない。それは鋤に寄りかかる癖がある・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・花房の父があの家をがらくたと一しょに買い取った時、天井裏から長さ三尺ばかりの細長い箱が出た。蓋に御鋪物と書いてある。御鋪物とは将軍の鋪物である。今は花房の家で、その箱に掛物が入れてある。 火事にも逢わずに、だいぶ久しく立っている家と見え・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・人間を長い間その中に据わらせておいて、悪い性質を抜け出させるのである。 ツァウォツキイはだんだん光線に慣れて来て、自分の体の中が次第に浄くなるように感じた。心の臓も浄くなったので、いろんな事を思い出して、そして生れたと云うばかりで、男の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫