・・・「やちもないことをしてくさって、虹吉の阿呆めが!」 母は兄の前では一言の文句もよく言わずに、かげで息子の不品行を責めた。僕は、「早よ、ほかで嫁を貰うてやらんせんにゃ。」 母と、母の姉にあたる伯母が来あわしている椽側で云った。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 仕事が始る時、従兄がやって来て、「阿呆が、もっと気を付けい!」と云った。 併し、京一は、それを聞いていなかった。彼は、何故か自分一人が馬鹿にせられているようで淋しく悲しかった。「もうこんなとこに居りゃせん!」 彼は、涙・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・悪口をいえば骨董は死人の手垢の附いた物ということで、余り心持の好いわけの物でもなく、大博物館だって盗賊の手柄くらべを見るようなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、野暮な談で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行われるお蔭・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・しかし思いのほかに目鼻立の整った、そして怜悧だか気象が好いか何かは分らないが、ただ阿呆げてはいない、狡いか善良かどうかは分らないが、ただ無茶ではない、ということだけは読取れた。 少し気の毒なような感じがせぬではなかったが、これが少年でな・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ 秀吉金冠を戴きたりといえども五右衛門四天を着けたりといえども猿か友市生れた時は同じ乳呑児なり太閤たると大盗たると聾が聞かば音は異るまじきも変るは塵の世の虫けらどもが栄枯窮達一度が末代とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山村俊・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰掛けて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。 何かしなければならぬ。 釣。 将棋。 そこに井伏さんの全霊が打ち込まれているのだかどうだか、それは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・わが子ながら、ほとんど阿呆の感じでした。 その池のはたのベンチにいつまでいたって、何のらちのあく事では無し、私はまた坊やを背負って、ぶらぶら吉祥寺の駅のほうへ引返し、にぎやかな露店街を見て廻って、それから、駅で中野行きの切符を買い、何の・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・あの人は、阿呆なくらいに自惚れ屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・すすめられるままに、ただ阿呆のように、しっかりビイルを飲んで、そうして長押の写真を見て、無礼極まる質問を発して、そうして意気揚々と引上げて来た私の日本一の間抜けた姿を思い、頬が赤くなり、耳が赤くなり、胃腑まで赤くなるような気持であった。・・・ 太宰治 「佳日」
・・・それをすぐオーケーとばかりに承諾しては田代公吉が阿呆になるからそれは断然拒絶して夕刊娘美代子の前に男を上げさせる。この夕刊売りの娘を後に最後の瞬間において靴磨きのために最有利な証人として出現させるために序幕からその糸口をこしらえておかなけれ・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
出典:青空文庫