・・・人と対話している時に顔の陰影と光が気になって困った。ある夜顔色の美しい女客の顔を電燈の光でしみじみ見ていると頬や額の明るい所がどうしてもまだかわかぬ生の絵の具をべっとり盛り上げたような気がしてしかたがなかった、そしてその光った所が顔の運動に・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・細帯しどけなき寝衣姿の女が、懐紙を口に銜て、例の艶かしい立膝ながらに手水鉢の柄杓から水を汲んで手先を洗っていると、その傍に置いた寝屋の雪洞の光は、この流派の常として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜の小雨のいと蕭条に海棠の花弁を散す小庭の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・の専有物ではなくって、あなた方と切り離し得べからざる道徳の形容詞としてすぐ応用ができるというのが私の意見で、なぜそう応用ができるかという訳と、かく応用された言葉の表現する道徳が日本の過去現在に興味ある陰影を投げているという事と、それからその・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・日はもう、よっぽど西にかたよって、丘には陰影もできました。かたくりの花はゆらゆらと燃え、その葉の上には、いろいろな黒いもようが、次から次と、出てきては消え、でてきては消えしています。タネリは低く読みました。「太陽は、 丘の髪毛の向う・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・もちろんひとりもデストゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデストゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないように車道との堺の並木のしたの陰影になったところをあるいているのでした。 どうもデストゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなど・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・遊びはいつもの遊びなのだが何だか部屋の隅々が暗く、物の陰翳が深く、様子が違う。その何だか違う感じが小さい子の感情を限りなく魅する。ちょっぴりこわいようでもある。珍しいものはいつだって少しはこわいところもある。――それを子供はよく知っている。・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・しかし今日の眼で真に人生の可能を探ろうとすれば、却って軽蔑を押えられない木部の俤を伝えている定子に対する自身の女として堪え難い苦しい感情、子供には告げることの出来ない複雑な愛憎の陰翳を勇気をもって突きつめて自身に究明することによって、葉子の・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ 卓子の上のスタンドが和らかな深い陰翳をもって彼の顔半面を照し出した。彼方側を歩いているさほ子の顔は見えず、白い足袋ばかりがちらちら薄明りの中に動いて見えた。 十分ばかりも経った時、さほ子はやっと沈黙を破った。「それじゃ、私斯う・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・実生活の困難がますます加わって来るにつれて、男は妻をますます家政の守りとして求め、その求めてゆく心にいつしか日本の社会の古い古い陰翳が落ちて、新しい世代の賢さから生れる家政上手に信頼をつなごうとするより、そのことではむしろ旧套にたよった守勢・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・これほど自由自在に、また微妙に、心の陰影を現わし得る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしてこの表情の自由さは、能面が何らの人らしい表情をも固定的に現わしていないということに基づくのである。笑っている伎楽面は泣くことはできない。しかし死相を・・・ 和辻哲郎 「面とペルソナ」
出典:青空文庫