・・・ 寛文九年の秋、一行は落ちかかる雁と共に、始めて江戸の土を踏んだ。江戸は諸国の老若貴賤が集まっている所だけに、敵の手がかりを尋ねるのにも、何かと便宜が多そうであった。そこで彼等はまず神田の裏町に仮の宿を定めてから甚太夫は怪しい謡を唱って・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・私は一人の病人と頑是ないお前たちとを労わりながら旅雁のように南を指して遁れなければならなくなった。 それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後にして旅に上ったのは。忘れる事の出来ないいくつかの顔・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・けらと笑ったのは大柄な女の、くずれた円髷の大年増、尻尾と下腹は何を巻いてかくしたか、縞小紋の糸が透いて、膝へ紅裏のにじんだ小袖を、ほとんど素膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の陽炎、ふかふかと湯気の立つ、雁もどきと、蒟蒻の煮込のおでんの皿盛を白・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・それには一週間ばかり以来、郵便物が通ずると言うのを聞くさえ、雁の初だよりで、古の名将、また英雄が、涙に、誉に、屍を埋め、名を残した、あの、山また山、また山の山路を、重る峠を、一羽でとぶか、と袖をしめ、襟を合わせた。山霊に対して、小さな身体は・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ その空へ、すらすらと雁のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も据って、瞬きもしないで、恍惚と同じ処を凝視めているのを、宗吉はまたちらりと見た。 ああその女? と波を打って轟く胸に、この停車場は、大なる船の甲板の廻るように、舳を明・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・その釘隠が馬鹿に大きい雁であった。勿論一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。 僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しく煩って居られ、黒塗的な奥の一間・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・歌舞伎座の裏手の自由軒の横に雁次郎横町という路地があります。なぜ雁次郎横町というのか判らないが、突当りに地蔵さんが祀ってあり、金ぷら屋や寿司屋など食物屋がごちゃごちゃとある中に、格子のはまった小さなしもた家――それが父の家でした。父はもう七・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・屋根に、六つか七つぐらいの植木の小鉢が置いてあったのを見て私は、雁治郎横丁を想い出した。雁治郎横丁は千日前歌舞伎座横の食物路地であるが、そこにもまた忘れられたようなしもた家があって、二階の天井が低く、格子が暑くるしく掛っているのである。そし・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・そして空しく七年が過ぎて殆ど諦めかけていたある日、遂にそれを手に入れることが出来た。雁次郎横丁の天辰の主人がたまたま持っていたのである。四 雁次郎横丁――今はもう跡形もなく焼けてしまっているが、そしてそれだけに一層愛惜を感じ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・この四郎さんは私と仲よしで、近いうちに裏の田んぼで雁をつる約束がしてあったのです、ところがその晩、おッ母アと樋口は某坂の町に買い物があるとて出てゆき、政法の二人は校堂でやる生徒仲間の演説会にゆき、木村は祈祷会にゆき、家に残ったのは、下女代わ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
出典:青空文庫