・・・ この雲煙邱壑は、紛れもない黄一峯です、癡翁を除いては何人も、これほど皴点を加えながら、しかも墨を活かすことは――これほど設色を重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・草を茵とし石を卓として、谿流のえいかいせる、雲烟の変化するを見ながら食うもよし、かつ価も廉にして妙なりなぞとよろこびながら、仰いで口中に卵を受くるに、臭鼻を突き味舌を刺す。驚きて吐き出すに腐れたるなり。嗽ぎて嗽げども胸わろし。この度は水の椀・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・くわいな と小声で呟き、起き上って、また転倒し、世界が自分を中心に目にもとまらぬ速さで回転し、 わたしゃ 売られて行くわいな その蚊の鳴くが如き、あわれにかぼそいわが歌声だけが、はるか雲煙のかなたから聞えて来るような気持で、・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・あの雲煙模糊の大陸が佐渡だとすると、到着までには、まだ相当の間がある。早くから騒ぎまわって損をした。私は、再びうんざりして、毛布を引っぱり船室の隅に寝てしまった。 けれども他の船客たちは、私と反対に、むくりむくり起きはじめ、身仕度にとり・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・車し、そこから五能線に乗りかえ、謂わば、青森県の裏口からはいって行って五所川原駅で降りて、それからいよいよ津軽鉄道に乗りかえて生れ故郷の金木という町にたどり着くという段取りであったのですが、思えば前途雲煙のかなたにあり、うまくいっても三昼夜・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・もう地平線のかなたに去っている。雲煙模糊である。「アンリ・ベックの、……」背後の青年が、また言った。笠井さんは、それを聞き、ふたたび頬を赤らめた。わからないのである。アンリ・ベック。誰だったかなあ。たしかに笠井さんは、その名を、嘗つて口・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・その末はいつとなく模糊たる雲煙の中に没しているのが誘惑的である。ちょっと見ると一と息で登れそうな気がするが、上り口の立て札には頂上まで五時間を要し途中一滴の水もないと書いてある。誘惑にはうっかり乗れない。 第一日には頂上までの五分の一だ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ある場合には紙面の上下に二つの場面の終わりと始めとが雲煙を隔ててオーバーラップの形で現われることもあるであろう。今手近に適切な実例をあげることはできないが、おそらくこれらの絵巻物の中から「対照」「譬喩」「平行」「同時」等いろいろのモンタージ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・すべての物体は雲煙のごとくまた妖怪変化と類を同じうするだろう。 重量約一匁とか長さ約一寸といえば通例衡り方度り方の粗雑な事を意味する。丁度一匁とかキッチリ一寸など云えば大変に正確に聞えるが、精密とか粗雑とかいうのも結局は相対的の言葉であ・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・郊外の龍華寺に往きその塔に登って、ここに始めて雲烟渺々たる間に低く一連の山脈を望むことができるのだと、車の中で父が語られた。 昭和の日本人は秋晴れの日、山に遊ぶことを言うにハイキングとやら称する亜米利加語を用いているが、わたくしの如き頑・・・ 永井荷風 「十九の秋」
出典:青空文庫