・・・殻斗科の花や青葉の匂いに満された密度の濃い空気が、しばらく自分達を包んだ。――その日から自分はまた、その日の獲物だった崖からの近道を通うようになった。 それはある雨あがりの日のことであった。午後で、自分は学校の帰途であった。 い・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・そよ吹く風に霧雨舞い込みてわが面を払えば何となく秋の心地せらる、ただ萌え出ずる青葉のみは季節を欺き得ず、げに夏の初め、この年の春はこの長雨にて永久に逝きたり。宮本二郎は言うまでもなく、貴嬢もわれもこの悲しき、あさましき春の永久にゆきてまたか・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 川柳は日の光にその長い青葉をきらめかして、風のそよぐごとに黒い影と入り乱れている。その冷ややかな陰の水際に一人の丸く肥ッた少年が釣りを垂れて深い清い淵の水面を余念なく見ている、その少年を少し隔れて柳の株に腰かけて、一人の旅人、零落と疲・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 道は随分暑かッたが森へ来て少し休むと薄暗い奥の方から冷たい風が吹いて来ていい心持になった、青葉の影の透きとおるような光を仰いで身体を横に足を草の上に投げ出してじっと向こうを見ていると、何という静かな美しい、のびのびした景色だろう! 僕・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・帰来した燕は、その麦の上を、青葉に腹をすらんばかりに低く飛び交うた。 測量をする技師の一と組は、巻尺と、赤と白のペンキを交互に塗ったボンデンや、測量機等を携えて、その麦畑の中を行き来した。巻尺を引っ張り、三本の脚の上にのせた、望遠鏡のよ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・それまでは、彼はたゞ一本のみずみずしい青葉をつけた樹を見るように彼女を見ていたゞけだった。まもなく彼は、話があるから廃坑へ行かないかと、彼女に切出した。「なアに?」 彼女は、あどけない顔をしていた。「話だよ。お前をかっさらって、・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・さてそれより塩竈神社にもうでて、もうこの碑、壺の碑前を過ぎ、芭蕉の辻につき、青葉の名城は日暮れたれば明日の見物となすべきつもりにて、知る人の許に行きける。しおがまにてただの一銭となりければ、そを神にたてまつりて、からからとからき・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・そこいらはもうすっかり青葉の世界だった。私は両方の拳を堅く握りしめ、それをうんと高く延ばし、大きなあくびを一つした。「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」 これは日ごろ私の胸を往ったり来たりする、あるすぐれた芸術・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 懐古園とした大きな額の掛った城門を入って、二人は青葉に埋れた石垣の間へ出た。その辺は昼休みの時間などに塾の生徒のよく遊びに来るところだ。高く築き上げられた、大きな黒ずんだ石の側面はそれに附着した古苔と共に二人の右にも左にもあった。・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・夕靄につつまれた、眼前の狩野川は満々と水を湛え、岸の青葉を嘗めてゆるゆると流れて居ました。おそろしい程深い蒼い川で、ライン川とはこんなのではないかしら、と私は頗る唐突ながら、そう思いました。ビイルが無くなってしまったので、私達は又、三島の町・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫