・・・ 下顎骨の長い、獰猛に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。 彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 中尉は下顎骨の張った、獰猛な、癇癪持ちらしい顔をしていた。傷口が痛そうな振りもせず、とっておきの壁の青い別室に坐りこんでいた。その眼は、頭蓋骨の真中へ向けられ、何か一つの事にすべての注意を奪われている恰好だった。 やったのは、ロシ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・獣は所謂駭き心になって急に奔ったり、懼れの目を張って疑いの足取り遅くのそのそと歩いたりしながら、何ぞの場合には咬みつこうか、はたきつけようかと、恐ろしい緊張を顎骨や爪の根に漲らせることを忘れぬであろう。 応仁、文明、長享、延徳を歴て、今・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・その後で立った人は、短い顔と多角的な顎骨とに精悍の気を溢らせて、身振り交じりに前の人の説を駁しているようであった。 たださえ耳の悪いのが、桟敷の不良な空気を吸って逆上して来たために、猶更聞こえが悪くなったのか、それとも云っている事が、よ・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・ただし、左の下あごの犬歯の根だけ残っていたのが容易に抜けないので、がんじょうな器械を押し当ててぐいぐいねじられたときは顎骨がぎしぎし鳴って今にも割れるかと思うようで気持ちが悪かった。手術がすんだら看護婦が葡萄酒を一杯もって来て飲まされ、二三・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・駝鳥の卵や羽毛、羽扇、藁細工のかご、貝や珊瑚の首飾り、かもしかの角、鱶の顎骨などで、いずれも相当に高い値段である。 船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる。その腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでいる。あれがパイロットフィ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 顎の張った人は意志が強いというから、始終チューインガムを噛んで顎骨でも発育したらあるいは意志が強くなるというのかもしれない。 こう考えて来ると少なくも彼の税関吏の場合はやや従前とはちがった光の下に見直すことが出来る。税関吏の仕事は・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・ わたしは告別式のとき、全露作家団体協議会クラブの広間に据えられた棺の中に横わっているマヤコフスキーを見た。顎骨のつよくはった彼の顔、体を包んでいる赤い旗、胸の上におかれているバラの花。それ等は写真にとられ、ソヴェト文学史の第何頁かにの・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・ 台の後に男が立っているのだが、赧っぽい髪と、顎骨の張った厳しい蒼白な顔つきとで、到底、買いてを待つ商人とは思えなかった。兵隊であったかと感じる程、身じろぎもせず、げんなりした風もなく突立っている。見て、寒い恐怖に近いものが感じられた。・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・ただ二人ぎりだということは、食うという動作に妙な自覚を与えられる――つまり、その感じを少しつきつめて行くと、度はずれな人気なさと錯雑した色彩の跳梁とで何処やらアラン・ポウ的幻想が潜んでいそうな室内で、顎骨を上下させ咀嚼作用を営んでいる孤独な・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫