・・・当時大学の学生だった本間さんは、午後九時何分かに京都を発した急行の上り列車の食堂で、白葡萄酒のコップを前にしながら、ぼんやりM・C・Cの煙をふかしていた。さっき米原を通り越したから、もう岐阜県の境に近づいているのに相違ない。硝子窓から外を見・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・そのうちに彼等は電燈の明るい「食堂」の前へ通りかかった。そこにはシャツ一枚の男が一人「食堂」の女中とふざけながら、章魚を肴に酒を飲んでいた。それは勿論彼女の目にはちらりと見えたばかりだった。が、彼女はこの男を、――この無精髭を伸ばした男を軽・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・ 食堂では珈琲を煮ている。トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。「あなた、珈琲が出来ま・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・室だけならまだ可いが、食事の時間になったらボーイを寄こしてとうとう食堂まで引張り出された。あんなに不愉快な飯を食ったことはない。B それは三等の切符を持っていた所為だ。一等の切符さえ有れあ当り前じゃないか。A 莫迦を言え。人間は皆赤・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・い、利休は法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと云ってある位である、されば聊かの用意だにあれば、日常の食事を茶の湯式にすることは雑作もないことである、只今日の日本家庭の如く食室がなくては困る、台所以外食堂というも仰山なれど、特に会食の為に作・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・文子がくれた金は汽車賃を払うと、もうわずかしか残らず、汽車の食堂での飲み食いが精いっぱいでしたので、汽車を降りて、煙草を買うと、もう無一文。しかし、かえってサバサバした気持で大阪駅から中之島公園まで歩きました。公園の中へはいり、川の岸に腰を・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ いつか阿倍野橋の闇市場の食堂で、一人の痩せた青年が、飯を食っているところを目撃した。 彼はまず、カレーライスを食い、天丼を食べた。そして、一寸考えて、オムライスを注文した。 やがて、それを平げると、暫らく水を飲んでいたが、ふと・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・もうあとは簡単に葬ってきさえすればいいのだ――がさすがに食堂へ行って酒を飲んでくる気にもなれず、睡っておきたいと思いながら睡れもしなかった。「おやじはもうどの辺まで往ったろうか。生きているうち脚に不自由したので、死んでからおおいに駈け廻・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 客車。食堂車。寝台車。光と熱と歓語で充たされた列車。 激しい車輪の響きが彼の身体に戦慄を伝えた。それははじめ荒々しく彼をやっつけたが、遂には得体の知れない感情を呼び起こした。涙が流れ出た。 響きは遂に消えてしまった。そのままの・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・そのとき吉田がその病舎の食堂で、何心なく食事した後ぼんやりと窓に映る風景を眺めていると、いきなりその眼の前へ顔を近付けて、非常に押し殺した力強い声で、「心臓へ来ましたか?」 と耳打ちをした女があった。はっとして吉田がその女の顔を見る・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
出典:青空文庫