・・・十六年前の事を思ってみると、あのマドレエヌと云う女は馬鹿に美しい女だった。それが大して変っていないとすると。」これまで言って、あとはなんとも云わなかった。心の内でもそのあとは考えなかったのである。オオビュルナンは女に逢うに、どうしようと云う・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 坂を下りて提灯が見えなくなると熊手持って帰る人が頻りに目につくから、どんな奴が熊手なんか買うか試に人相を鑑定してやろうと思うて居ると、向うから馬鹿に大きな熊手をさしあげて威張ってる奴がやって来た。職人であろうか、しかし善く分らぬ。月が・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。 そしてただひとり暗いこけももの敷物を踏んでツ・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ 馬鹿らしい独言を云って机の上に散らばった原稿紙や古ペンをながめて、誰か人が来て今の此の私の気持を仕末をつけて呉れたらよかろうと思う。 未だお昼前だのに来る人の有ろう筈もなしと思うと昨日大森の家へ行って仕舞ったK子が居て呉れたら・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・やはり少し馬鹿にする気味で、好意を表していてくれる人と、冷澹に構わずに置いてくれる人とがあるばかりである。 それに文壇では折々退治られる。 木村はただ人が構わずに置いてくれれば好いと思う。構わずにというが、著作だけはさせて貰いたい。・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・おれはまるで馬鹿にされたようなものだ。銭は手めえが皆取ってしまったじゃないか。もっとやれ。」ツァウォツキイの声は叫ぶようであった。 相手は聴かなかった。雨は降るし、遅くもなっているし、もうどうしても廃すのだ。その代り近いうちに填合せをし・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・と云う意味なら、それは今よりより一段馬鹿になれと教えることとさして変る所がない。何ぜなら生活の感覚化はより滅亡相への堕落を意味するにすぎないからだ。もしも彼らが感覚派なるものに向って、感覚派も根本的生活活動から感覚的であらざるが故に、感覚派・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・言ってしまって、如何にも自分の詞が馬鹿気て、拙くて、荒っぽかったと感じたのである。 女は聞かなかった様子で語り続けた。「わたくしは内へ帰りますの。あちらでは花の咲いている中で、悲しい心持がしてなりませんでした。それに一人でいますのですか・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・なぜなら道の代表者を特殊思想の代表者と混同するような馬鹿者が出てくるからである。 小生はこの考えが老父の了解を得ることを信じて右の手紙を発送した。 これが一つの私事の顛末である。・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫