・・・心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起した。 自動車がくねくね電光型に曲・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 私は五反田駅前の公衆電話で、瀬川さんの御都合を伺った。先生は、昨年の春、同じ学部の若い教授と意見の衝突があって、忍ぶべからざる侮辱を受けたとかの理由を以て大学の講壇から去り、いまは牛込の御自宅で、それこそ晴耕雨読とでもいうべき悠々自適・・・ 太宰治 「佳日」
・・・三鷹駅前のおでん屋、すし屋などで、実にしばしば酒を飲んだ。三田君は、酒を飲んでもおとなしかった。酒の席でも、戸石君が一ばん派手に騒いでいた。 けれども、戸石君にとっては、三田君は少々苦手であったらしい。三田君は、戸石君と二人きりになると・・・ 太宰治 「散華」
・・・ けさ、花を買って帰る途中、三鷹駅前の広場に、古風な馬車が客を待っているのを見た。明治、鹿鳴館のにおいがあった。私は、あまりの懐しさに、馭者に尋ねた。「この馬車は、どこへ行くのですか。」「さあ、どこへでも。」老いた馭者は、あいそ・・・ 太宰治 「新郎」
・・・青森駅前の屋台店で、支那そば一ぱい食べたきりで、そのまま私は上野行の汽車に乗り、ふるさとの誰とも逢わず、まっすぐに東京へ帰ってしまったのだ。十年間、ちらと、たった一度だけ見たふるさとは、私にこんなに、つらかった。いまは、何やら苦しみに呆け、・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・ Sさんは新橋駅前の橋の上で立ちどまり、「画になるね」と低い声で言って、銀座の橋のほうを指さした。「はあ」私も立ちどまって、眺めた。「画になるね」重ねて、ひとりごとのようにして、おっしゃった。 眺められている風景よりも、・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・雨の中を駅前まで引き返し、自動車を見つけて、上諏訪、滝の屋、大急ぎでたのみます、と、ほとんど泣き声で言って、自動車に乗り込み、失敗、こんどの旅行は、これは、完全に失敗だったかも知れぬ、といても立っても居られぬほどの後悔を覚えた。 あのひ・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・僕は新宿の駅前で、肩をたたかれ、振り向くと、れいの林先生の橋田氏が微醺を帯びて笑って立っている。「眉山軒ですか?」「ええ、どうです、一緒に。」 と、僕は橋田氏を誘った。「いや、私はもう行って来たんです。」「いいじゃありま・・・ 太宰治 「眉山」
・・・それは駅前の金物屋から四、五年前に二円で買って来たものだ。そんなものを褒める奴があるか。」 どうも勝手が違う。けれども私は、あくまでも「茶道読本」で教えられた正しい作法を守ろうと思った。 釜の拝見の次には床の間の拝見である。私たちは・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ 上野駅前の浮浪者の群ですか? あたしならば、広島の焼跡をかくんだがなあ。そうでなければ、東京の私たちの頭上に降って来たあの美しい焔の雨。きっと、いい絵が出来るわよ。私のところでは、母が十日ほど前に、或るいやな事件のショックのために卒倒して・・・ 太宰治 「冬の花火」
出典:青空文庫