・・・正月飾りに、魚河岸に三個よりなかったという二尺六寸の海老を、緋縅の鎧のごとく、黒松の樽に縅した一騎駈の商売では軍が危い。家の業が立ちにくい。がらりと気を替えて、こうべ肉のすき焼、ばた焼、お望み次第に客を呼んで、抱一上人の夕顔を石燈籠の灯でほ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ が、番人が現場へやって来る頃には、僕等はちゃんと、五六本の松茸を手籠にむしり取って、小笹が生いしげった、暗い繁みや、太い黒松のかげに、息をひそめてかくれていた。「餓鬼らめが、くそッ! どこへうせやがったんだい! ド骨を叩き折って呉・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 宿の裏門を出て土堤へ上り、右に折れると松原のはずれに一際大きい黒松が、潮風に吹き曲げられた梢を垂れて、土堤下の藁屋根に幾歳の落葉を積んでいる。その松の根に小屋のようなものが一つある。柱は竹を堀り立てたばかり、屋根は骨ばかりの障子に荒筵・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・落葉松、白樺、厚朴、かえでなどの代わりに赤松、黒松、榛、欅、桐などが幅をきかしている。そうして自由に放恣な太古のままの秋草の荒野の代わりに、一々土地台帳の区画に縛られた水稲、黍、甘藷、桑などの田畑が、単調で眠たい田園行進曲のメロディーを奏し・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・そして海岸にわずかの砂浜があってそこには巨きな黒松の並木のある街道が通っている。少し大きな谷には小さな家が二、三十も建っていてそこの浜には五、六そうの舟もある。さっきから見えていた白い燈台はすぐそこだ。ぼくは船が横を通る間にだまってすっ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫