・・・が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。 その沈黙はたちまち絞め木のように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗を絞り出した。彼はわなわな震える手に、戸のノッブを探り・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・が、その金切声の中に潜んでいる幾百万の悲惨な人間の声は、当時の自分たちの鼓膜を刺戟すべく、余りに深刻なものであった。だからその時間中、倦怠に倦怠を重ねた自分たちの中には、無遠慮な欠伸の声を洩らしたものさえ、自分のほかにも少くはない。しかし毛・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・ 機関銃の上等兵は、少尉に鼓膜を叩き破られた兄を持っていた。何等償われることなしに兄は帰休になって、今は小作をやっている。入営前大阪へ出て、金をかけて兄は速記術を習得したのであった。それを兄は、耳が聞えなくなったため放棄しなければならな・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・顛覆した列車の窓からとび出た時の、石のような雪の感触や、パルチザンの小銃とこんがらがった、メリケン兵のピストルの轟然たる音響が、まだ彼の鼓膜にひゞいていた。 腕はしびれて重かった。それは、始め火をつけたようにくゎッ/\と燃え立っていたが・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・と雖も、たゆまざる努力を用いて必ずやこの老いの痩腕に八郎にも劣らぬくろがねの筋をぶち込んでお目に掛けんと固く決意仕り、ひとり首肯してその夜の稽古は打止めに致し、帰途は鳴瀬医院に立寄って耳の診察を乞い、鼓膜は別に何ともなっていませんとの診断を・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・気圧の急変で鼓膜を圧迫されるのをかまわないでいたら、熱海海岸で車を下りてみると耳がひどく遠くなっているのに気がついた。いくら唾を呑込んでみても直らない。人の物いう声が遠方に聞こえる代りに自分の声が妙に耳に籠って響くので、何となく心細くなって・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・音も鼓膜を動かして仕事をし、また熱にも変ずる。しかるに此のごとく搬ばれ彼のごとく変化するエネルギーの本体は何物か。これは吾人の官能の外にあるものでつまり一つの観念ではあるまいか。物質の観念が未開人にもあるのにエネルギーの考えが俗人に通ぜぬの・・・ 寺田寅彦 「物質とエネルギー」
・・・けれども一度耳についたこの不可思議な音は、それが続いて自分の鼓膜に訴える限り、妙に神経に祟って、どうしても忘れる訳に行かなかった。あたりは森として静かである。この棟に不自由な身を託した患者は申し合せたように黙っている。寝ているのか、考えてい・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・微かではあるが只一つの声ではない、漸く鼓膜に響く位の静かな音のうちに――無数の音が交っている。耳に落つる一の音が聴けば聴く程多くの音がかたまって出来上った様に明かに聞き取られる。盾の上に動く物の数多きだけ、音の数も多く、又その動くものの定か・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・また同様に鼓膜も、極めて微細な震動しかしなかった。空気――風――と光線とは誰の所有に属するかは、多分、典獄か検事局かに属するんだろう――知らなかったが、私達の所有は断乎として禁じられていた。 それが今、声帯は躍動し、鼓膜は裂けるばかりに・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫