出典:青空文庫
・・・卒業してからはペンとインキとそれから月給の足らないのと婆さんの苦情でやはり死ぬと云う事を考える暇がなかった。人間は死ぬ者だとはいかに呑気な余でも承知しておったに相違ないが、実際余も死ぬものだと感じたのは今夜が生れて以来始めてである。夜と云う・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事ができた。伽藍のような書斎へは誰も這入って来ない習慣であった。筆の音に淋しさと云う意味を感じた朝も昼も晩もあった。しかし時々はこの筆の音がぴたりとやむ、またやめねばならぬ、折もだいぶあった。その時・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・夫では一本の万年筆がどの位長く使えるだろうと聞いたら、此間横浜のもので、ペンはまだ可なりだが、軸が減ったから軸丈易えて呉れと云って持って来たのがあるが、此人は十三年前に一本買ったぎりで、其一本を今日まで絶えず使用していたのだというから、是が・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」 そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、「礼。」と言いました。 みんなは・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 生徒はみんなきちんと手を膝において耳を尖らせて聞いていましたが、この時一斉にペンをとって黒板の字を書きとりました。 校長は一寸私の顔を見ました。私がどんな風に、今の講義を感じたか、それを知りたいという様子でしたから、私は五六秒眼を・・・ 宮沢賢治 「茨海小学校」
・・・ わたくしはすぐペンを置いてみんなの椅子の間を通り、間の扉をあけて所長室にはいりました。 すると所長は一枚の紙きれを持って扉をあける前から恐い顔つきをして、わたくしの方を見ていましたが、わたくしが前に行って恭しく礼をすると、またじっ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・じっと心を守り、余分な精力と注意は一滴も他に浪費しないように、念を入れ心をあつめて、ペンならペン、絵筆なら絵筆を執るべきでしょう。 恋愛に対してもそうであろうと思われます。決して卑しく求むべきではないし、最上とか何とか先入的な価値の概念・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・ 馬鹿らしい独言を云って机の上に散らばった原稿紙や古ペンをながめて、誰か人が来て今の此の私の気持を仕末をつけて呉れたらよかろうと思う。 未だお昼前だのに来る人の有ろう筈もなしと思うと昨日大森の家へ行って仕舞ったK子が居て呉れたら・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・ 国際ペンクラブは第十三回大会をバルセロナに第十四回大会をブェノスアイレスに第十五回大会をパリで開き、ますますはっきり世界の文学者がファシズムに反対して、ヒューマニズムと平和と文化の守りのためにたたかおうとする意志を明らかにして来ていた・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・ それから舶来の象牙紙と封筒との箱入になっているのを出して、ペンで手紙を書き出した。石田はペンと鉛筆とで万事済ませて、硯というものを使わない。稀に願届なぞがいれば、書記に頼む。それは陸軍に出てから病気引籠をしたことがないという位だから、・・・ 森鴎外 「鶏」