出典:青空文庫
・・・余が倫敦に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地の模様をかいて遙々と二三回長い消息をした。無聊に苦んで居た子規は余の書翰を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
・・・子規○僕が死んだら道端か原の真中に葬って土饅頭を築いて野茨を植えてもらいたい。石を建てるのはいやだがやむなくば沢庵石のようなごろごろした白い石を三つか四つかころがして置くばかりにしてもらおう。もしそれも出来なければ円形か四角・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 子規子より「飯待つ間」の原稿送り来されたる同封中に猫の写生画二つあり。一は顔にして、一は尻高く頭低く丸くなりて臥しゐるところなり。その画の周囲に次の如き文章あり。もとより一時の戯れ書きに過ぎざれど、「飯待つ間」と相照応して面白・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
ありふれた従来の日本文学史をみると、明治三十年代に写生文学というものをはじめて提唱した文学者として正岡子規、高浜虚子や『ホトトギス』派のことは出て来るが、長塚節のことはとりたてて触れられていない。 明治十二年に茨城県の・・・ 宮本百合子 「「土」と当時の写実文学」
・・・ついでだから話すが、今の文壇というものは、鴎外陣亡の後に立ったものであって、前から名の聞こえて居た人の、猶その間に雑って活動しているのは、ほとんど彼ほととぎすの子規のみであろう。ある人がかつて俳諧は普遍の徳があるとか云ったが、子規の一派の永・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」