出典:青空文庫
・・・御隠居が六人ばかり、男客は、宇治紫暁と云う、腰の曲った一中の師匠と、素人の旦那衆が七八人、その中の三人は、三座の芝居や山王様の御上覧祭を知っている連中なので、この人たちの間では深川の鳥羽屋の寮であった義太夫の御浚いの話しや山城河岸の津藤が催・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・「五もくの師匠は、かわいそうだ。お前は芸は出来るのだ。」「武芸十八般一通り。」と魚屋の阿媽だけ、太刀の魚ほど反って云う。「義太夫は」「ようよう久しぶりお出しなね。」と見た処、壁にかかったのは、蝙蝠傘と箒ばかり。お妻が手拍子、口三味線。 ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・「こないだも大ざらいがあって、義太夫を語ったら、熊谷の次郎直実というのを熊谷の太郎と言うて笑われたんだ――あ、あれがうちの芸著です、寝坊の親玉」 と、そとを指さしたので、僕もその方に向いた。いちじくの葉かげから見えたのは、しごき一つ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・まだ宵のうちだったが、この狭い下宿街の一廓にも義太夫の流しの音が聞えていた。「明日は叔父さんが来るだ……」おせいはブツブツつぶやきながらも、今日も白いネルの小襦袢を縫っていた。新モスの胴着や綿入れは、やはり同じ下宿人の会社員の奥さんが縫・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・この頃島の若いものと一しょに稽古をしている義太夫。そうだ『玉三』でも唸りながら書こう。面白い! ――昼飯を済まして、自分は外出けようとするところへ母が来た。母が来たら自分の帰るまで待って貰う筈にして置いたところへ。 色の浅黒い、眼に・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・「あなたは、義太夫をおすきなの?」「どうして?」「去年の暮に、あなたは小土佐を聞きにいらしてたわね。」「そう。」「あの時、あたしはあなたの傍にいたのよ。あなたは稽古本なんか出して、何だか印をつけたりして、きざだったわね。・・・ 太宰治 「チャンス」
ほんの一時ひそかに凝った事がある。服装に凝ったのである。弘前高等学校一年生の時である。縞の着物に角帯をしめて歩いたものである。そして義太夫を習いに、女師匠のもとへ通ったのである。けれどもそれは、ほんの一年間だけの狂態であっ・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・辰さんは小声で義太夫を唸りながら、あらの始末をしている。女中部屋の方では陽気な笑声がもれる。戸外の景色に引きかえて此処はいつものように平和である。 嵐の話になって婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かった嵐を語る。辰さんが板敷から相槌を・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・舞台の右端から流れだす義太夫音楽の呼気がかからなければ決してあれだけの効果を生ずることはできないのはもちろんである。それかといって、人形の演技は決してこの音楽のただの伴奏ではなくて、聴覚的音楽に対する視覚的音楽の対位法であり、立派な合奏であ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・ 三 文楽の義太夫を聞きながら気のついたことは、あの太夫の声の音色が義太夫の太棹の三味線の音色とぴったり適合していることである、ピアノ伴奏では困るのである。 小唄勝太郎の小唄に洋楽の管絃伴奏のついた放送を・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」