・・・八月八日、立秋と、暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感ずるのである。ひと一倍早く……。 四、五年前まえの八月のはじめ、信濃追分へ行ったことがあった。 追分は軽井沢、沓掛とともに浅間根腰の三宿といわれ、いまは焼けてしまったが・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ おれも亦まツこの通り……ああ此男が羨ましい! 幸福者だよ、何も聞ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔、孔の周囲のこの血。これは誰の業? 皆こう・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・この骸骨が軍服を着けて、紐釦ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中で嘆息を漏した、「嗚呼戦争とは――これだ、これが即ち其姿だ」と。 相変らずの油照、手も顔も既うひりひりする。残少なの水も一滴残さず飲干して了った。渇いて渇い・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・…… ああ、それにしても、何というおもしろくないことだろう! 書きだしてからもう十日も経っているというのに、まだ五枚と進んでいないのだ。いや、書くことが何もないのだ。それに、実際物を書くべくいかに苦患な状態であるか――にもかかわらず、S・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・もうすっかり覚悟しなければ成らなくなりました。ああ仕方がない、もうこの上は何でも欲しがるものを皆やりましょう、そして心残りの無いよう看護してやりましょうと思いました。 此の時分から彼は今まで食べていた毎日の食物に飽きたと言い、バターもい・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・「あああ。こんなになった」 彼は母に当てつけの口調だった。「知らないじゃないか」「だって、あなたが爪でかたをつけたのじゃありませんか」 母が爪で圧したのだ、と彼は信じている。しかしそう言ったとき喬に、ひょっとしてあれじゃ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・その下萌えの片笑靨のわずかに見えたる、情を含む眼のさりとも知らず動きたる、たおやかなる風采のさらに見過ごしがてなる、ああ、辰弥はしばし動き得ず。 折からこれも手拭を提げて、ゆるゆる二階を下り来るは、先ほど見たる布袋のその人、登りかけたる・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・されど空気は重く湿り、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、木立ちの夕闇は頭うなだれて影のごとく歩む人の類を心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度ぞ。 水瀦に映る雲の色は・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・、子供の時など思い起しては恋しくもあり、突然寄附金の事を思いだしては心配で堪らず、運動場に敷く小砂利のことまで考えだし、頭はぐらぐらして気は遠くなり、それでいて神経は何処に焦焦した気味がある…… 嗚呼! 何故あの時自分は酒を呑なかったろ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・時宗が嘆じて「ああ日蓮は真に大丈夫である。自ら仏使と称するも宜なる哉」とついに文永十一年五月宗門弘通許可状を下し、日蓮をもって、「後代にも有り難き高僧、何の宗か之に比せん。日本国中に宗弘して妨げあるべからず」という護法の牒を与えた。 け・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫