・・・しかるに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。這辺の一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして初めて語ることが出来る。「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死んだんが本統であったんやも知れんけど、兎角、勇気のないもんがこない目に会うて」と、左の肩を振って見せたが、腕がないので、袖がただぶらりと垂れていた。「帰って来ても、廃・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
十年振りの会飲に、友人と僕とは気持ちよく酔った。戦争の時も出征して負傷したとは聴いていたが、会う機会を得なかったので、ようよう僕の方から、今度旅行の途次に、訪ねて行ったのだ。話がはずんで出征当時のことになった。「今の僕なら、君」と・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 鴎外は人に会うのが嫌いで能く玄関払いを喰わしたという噂がある。晩年の鴎外とは疎縁であったから知らないが、若い頃の鴎外はむしろ客の来るのを喜んで、鴎外の書斎はイツモお客で賑わった。 私が最も頻繁に訪問したのは花園町から太田の原の千駄・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・それゆえにヤコブのように、われわれの出遭う艱難についてわれわれは感謝すべきではないかと思います。 まことに私の言葉が錯雑しておって、かつ時間も少くございますから、私の考えをことごとく述べることはできない。しかしながら私は今日これで御免を・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・私自身の経験によっても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・私がその風に遇うか何うか分らないが、遇ったら言伝をいたしましょう。」と言って、その風も何処へとなく、去ってしまいました。 海は、灰色に静かに眠っていました。そして、雪は風と戦って、砕けたり飛んだりしていました。 こうしてじっとしてい・・・ 小川未明 「月と海豹」
・・・ かくて太平和の家庭にあっては、命あるものは、みんな同情し合うであろう。ストーヴにあたっている猫もやはり家庭の一人であります。みんなは、日暮に間近くなって吹く、外の嵐の音に耳を傾けているか、野に、丘に、圃に働いて、体を冷やして帰って来る・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・私はその人を命の恩人と思い、今は行方は判らぬが、もしめぐり会うことがあれば、この貯金通帳をそっくり上げようと名義も秋山にして、毎月十日に一円ずつ入れることにしたのです。十日にしたのはあの中之島公園の夜が八月十日だったのと、私の名が十吉だった・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 如何に罵られても、この夜ばかりは恨みにきかず、立ちどころに言い返して勝てば、一年中の福があるのだとばかり、智慧を絞り、泡を飛ばし、声を涸らし合うこの怪しげな行事は、名づけて新手村の悪口祭りといい、宵の頃よりはじめて、除夜の鐘の鳴りそめ・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
出典:青空文庫