・・・「おッ母さん、実は気が欝して来たんで、一杯飲ましてもらいたいんです、どッかいい座敷を一つ開けてもらいましょうか?」「それはありがとうござります」と、お貞はお君に目くばせしながら、「風通しのええ二階の三番がよかろ。あすこへ御案内お・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・三味の音が浪の音に聴えたり、浪の音が三味の音に聴えたり、まるで夢うつつのうちに神経が冴えて来て、胸苦しくもあったし、また何物かがあたまの心をこづいているような工合であった。明け方になって、いつのまにか労れて眠ってしまったのだろう、目が醒めた・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・晩年には益々昂じて舶来の織出し模様の敷布を買って来て、中央に穴を明けてスッポリ被り、左右の腕に垂れた個処を袖形に裁って縫いつけ、恰で酸漿のお化けのような服装をしていた事があった。この服装が一番似合うと大に得意になって写真まで撮った。服部長八・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・周囲を杉の皮で張って泥絵具で枝を描き、畳の隅に三日月形の穴を開け、下から微かに光線を取って昼なお暗き大森林を偲ばしめる趣向で、これを天狗部屋と称していた。この人の顔さえ定かならぬ薄暗い室に端座してベロンベロンと秘蔵の琵琶を掻鳴らす時の椿岳会・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・するといちばん年上の娘が、その金庫の方に歩いていって、そのとびらを開けました。そして中から、たくさんの金貨を盛った箱を、父親のねているまくらもとに持ってきました。父親はなにかいっていましたが、やがて半分ばかり床の中から体を起こして、やせた手・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・そして、夜明けごろに、この一隊は、海の方を指して、走っていきました。人々は、その夜は眠らずに、耳を澄まして、このひづめの音を聞いていました。 夜が明けたときには、もうこの一隊は、この城下には、どこにも見えませんでした。前夜のうちに、皇子・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ 答えがないので、為さんはそっと紙門を開けて座敷を覗くと、お光は不断着を被ったまままだ帯も結ばず、真白な足首現わに褄は開いて、片手に衣紋を抱えながらじっと立っている。「為さん、お前さん本当にそんなことを言ったのかね?」「ええ」と・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・れを気にも留めず、翌晩は寝る時に、本は一切片附けて枕許には何も置かずに床に入った、ところが、やがて昨晩と、殆んど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しく圧されるようになったので、不図また眼を開けて見ると、再度吃驚したというのは、仰・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・それ故、およそ一年中の夜明けという夜明けを知っていると言ってもよいくらいだが、夜明けの美しいのはやはり秋、ことに夏から秋へ移ろうとする頃の夜明けであろう。 五尺八寸、十三貫、すなわち痩せているせいで暑さに強い私は、裸で夜をすごすというこ・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・を書こうとしたのか、新吉ははげしい悔いを感じながら、しかしふと道が開けた明るい想いをゆすぶりながら、やがて帰りの電車に揺られていた。 一時間の後、新吉が清荒神の駅に降り立つと、さっきの女はやはりきょとんとした眼をして、化石したように動か・・・ 織田作之助 「郷愁」
出典:青空文庫